2011/12/06

必要があってのタバコ依存―嗜癖する社会

人は生きるために嗜癖します。しかし、その嗜癖全てが社会的悪として排除されるなら、その社会は何を人に求めているのでしょうか。

タバコを擁護するつもりはありませんが、喫煙者は喫煙の必要があって喫煙しているのです。それは必要があっての嗜癖(アディクション)にほかなりません。

タバコの健康への危険性を情報提供しつつも、喫煙する自由と喫煙しない自由を、人から奪うことが果たしてWHOや国家の正義なのでしょうか。

現在のわが国のタバコ排除運動は、ナチス・ドイツの健康至上主義運動と似ています。

「実に多くの逸材がタバコの毒に倒れていったのである」―アドルフ・ヒットラー1942年

ゲルマン民族が唯一優れた民族であり、その民族が未来永劫栄えるためには、健康帝国ナチスを作らねばならなかったのです。


(出典)『健康帝国ナチス』

紙巻たばこを排除しても、アンダーグラウンドが出来るだけです。
ちょうど、わが国でリタリン(処方薬の覚醒作用がある抗うつ剤)が、うつ病への処方禁止となった時期と、市場で取引される覚せい剤の価格が上昇したことと関連があるようなものです。

紙巻たばこの排除で儲かっているのは
http://www.rakuten.co.jp/snus/
のような代用タバコではないでしょうか。

我々が考えるべきは、嗜癖しなければ生きていけないこの日本社会にあるのです。

2011/11/02

佐賀県精神保健福祉センターにて「不登校・ひきこもりの理解と支援」と題して話をします

不登校やひきこもりの人の支援は、当事者だけでなく、家族全体を支援の対象とすることが重要です。そんなお話を佐賀県精神保健福祉センターでいたします。

と き:2011年12月2日(金)14:00~16:00
ところ:佐賀県精神保健福祉センター( 小城市小城町178-9)

お問い合わせ先
佐賀県精神保健福祉センター
〒845-0001 小城市小城町178-9
Tel 0952-73-5060 / Fax 0952-73-3388

2011/10/31

あなたの家系の暗黙のルールとは何か


福岡楠の会11月号会報掲載 四戸智昭

○音なき声
 「私は、これまで子どもに“勉強しなさい”とか“部屋から出て、仕事を探しなさい”などと言ったことはありません。それなのに、子どもは元気がなく部屋に引きこもっています。」という声を聞くことがある。
 不登校やひきこもりのためのマニュアル本が随分と出まわるようになって、ひきこもっている子どもへの対応の仕方だとか、不登校の子どもに言ってはいけない事などが対処方法としてまとめられるようになり、このマニュアルに従って子どもに接している親は多い。
 マニュアルのトップには大抵「ブラブラと何しているんだ!」「家を出て仕事を探せ!」「学校に行け!」などというメッセージは言ってはいけない禁句としてノミネートされている。
真面目な親たちは、この禁句を心に刻んで声にすることは絶対にしない。しかし、心のどこかでは“いつになったら他の子と同じように学校に行ってくれるのだろうか”とか“いつになったら同世代の人たちと同じように仕事をはじめるのだろうか”という自分の音なき声が心の中でこだましているのではないだろうか。


○子を苦しめるダブルバインド
 心の中だけで響きわたっているようなこだまは、声に出さなくても子どもに伝わる。それは、あなたの何気ない仕草や視線の動き、気付かない態度に現れる。そういった言葉ではない表現(ノンバーバルコミュニケーション:非言語コミュニケーション)は子どもに敏感に伝わる。

また、あなたは言葉にしていないつもりでも、言葉に隠れたメタメッセージとして子どもに伝わってしまう。ここで言うメタメッセージとは、「無理に仕事を探さなくていいのよ。」と子ども伝えたとしても、このメッセージの裏に隠れた「元気になったら仕事を探しなさい。」というメッセージのことを指す。
このような状態は、右手で子どもの肩を摩りながら労をねぎらっても、左手で子どもが部屋を出るような算段をしているようなもので、ダブルバインドと呼ばれる。大抵の子はこのダブルバインドを見事に見ぬいてしまう。
 母親は口では“ゆっくり休みなさい”と言っているが、どうやら本心ではないようだと感じれば、その子は心からゆっくり休むことはできないだろう。


○世代間を連鎖する暗黙のメタルール
 メタメッセージと同じで、家族の中には多くのメタルール(暗黙のルール)が存在する。父方の兄弟や従兄弟たちは、皆、国立大学を卒業している。あるいは、母方の親戚は、皆、公務員である。といったようなものがここで言うメタルールである。
 自分の家庭では、子どもに「国立大学に入学しなさい。」と言葉で言ったつもりはないが、親戚中が国立大学に入学しているような家庭。あるいは、子どもに「就職するなら公務員にしなさい。」と言葉で言ったつもりはないかもしれないが、公務員になることが暗黙のプレッシャーとなっているような家庭は山のように存在する。
 暗黙のプレッシャーが家族の構成員全員に理解されていて、万が一失敗したとしても、まあ、「私とあの夫の子だから、失敗して当然かも。」「私とあの人の子だから、公務員は無理。」と笑い合えるコミュニケーションがある家族はいいのだが、そのようなコミュニケーションがない家族は、“国立大学入学”“公務員就職”が至上命題となってしまう。
  
 こういった家族のメタルールは、世代を連鎖している事が多い。その地域では代々政治家の家系、あるいは代々医者の家系などというのは、そのメタルール(場合によっては表立っているルール)が世代間を連鎖している。気を付けなければいけないのは、政治家や医者の家系でなくても、あなたの家にも世代間を連鎖するメタルールが存在することである。

○自分で気が付かないルール
 厄介なのは、当事家族が気付かないメタルールである。ひきこもりや不登校のことで悩んでいる家族の多くは、自分の家に既述のようなメタルールがあることに気付いていない。
 「私の家はごく普通の家庭で、夫の家系も、私の家系も普通です。」などと言っている親に限って、よそ様と異なることをとても恐れていることが多い。つまり、他人と違ってはいけない。目立ってはいけないということがメタルールになっている場合もある。
 自分の家庭の暗黙のルールというのは、自分の家庭だけじっと観察してもわからない。あるいは、親戚を見渡しただけでは、なかなか気が付かない。全く異なる家庭との接触で、自分の家のメタルールに気が付くことがある。
 気が付くことが出来れば、後は、その事を声に出して家族と共有してみるといい。自分たちがどれだけそのメタルールのために、汲々と生活していたのか。父と母が、そのメタルールのために実はこれまで苦しんでいたことを笑いながら子と共有することができれば、あなたの家族は成長したと言えるだろう。
 その成長のための最初の一歩は、あなたが家族のグループミーティングに出て、他の家族の話をじっくり聴くことである。先日も、“私の家にも、実は暗黙のルールというのがあったんです。”と言ったメンバーの子は、先月から10年ほどひきこもっていた部屋を出て、仕事を探し始めたという。
 

2011/10/27

「思春期のこころとその関わりについて」と題して話をします

福岡県南筑後保健福祉環境事務所にて、「思春期のこころとその関わりについて」と題して講演をします。
具体的な内容は、不登校とひきこもりのお話になります。家族という視点で不登校の子やひきこもりの当事者について具体例を交えながらお話をしたいと思います。






日時:平成23年12月9日(金) 14:00~16:00
講義    1時間30分(途中10分の休憩)
質疑応答 20分

対象者:地域住民(各市町の広報誌やチラシにて周知)、市町職員、学校関係者、医療関係者、相談支援事業所職員など

お問い合わせ先
南筑後保健福祉環境事務所 健康増進課精神保健係
住所 柳川市三橋町今古賀8-1
TEL 0944-72-2176
FAX 0944-74-3295

2011/10/14

福岡市精神保健福祉センター「ひきこもり家族教室」にて話をします

11月24日(木)14:00~16:00
福岡市精神保健福祉センターの「ひきこもり家族教室」にて話をします。
内容は、「家族交流会で私が変わるために~親と子の共依存関係~」です。

いつも不登校やひきこもりの課題で悩んでいらっしゃるご家族にはお伝えすることですが、
不登校やひきこもりという課題と出会ったことで、家族や自分を振り返るチャンスが与えられたのだと思います。

当日は、親と子の共依存関係を中心にお話を進めていく予定です。

2011/10/05

グループミーティングという鏡を通じて得られる変化

(福岡楠の会会報10月号掲載エッセイより)


○ひきこもりは病んだ木の葉の症状にすぎない

 私の専門の嗜癖行動学の視点から不登校やひきこもりという現象を見ると、不登校・ひきこもりという現象は、木々の葉に元気がない症状に過ぎない。すなわち、黄色くなったり、枯れてきたりといった木の葉の症状がそれで、植物を育てることが好きな人ならば、葉が枯れ行く原因をじっと葉だけを見つめて分析はしない。木の根がどうなっているのか?あるいはその土壌がどうなっているのかに気配りするはずである。


 これと同じで、不登校やひきこもりの問題を抱えている家族内の人間関係や、夫婦関係、住んでいる地域や親戚関係における家族の状態を知ろうとする試みが嗜癖行動学の視点といえる。加えて、不登校の子にどうして不登校が必要なのか。ひきこもりの子にどうしてひきこもるという行為が必要なのかという視点もこの嗜癖行動学の視点である。
 一見すると、不登校やひきこもりの問題を解決するために遠回りをしているのではないかと感じる方もいらっしゃるであろう。直接本人に働きかけて、その行動を修正するのが早道と思う方も多い。しかし、近年の嗜癖行動学や家族療法といった視点は、当事者だけでなく、その家族も治療の対象とするのが定石となっている。



○ひきこもりの子を持つ親の病

 このような嗜癖行動学の視点で、不登校やひきこもりの問題を抱えた当事者の親たちを見ていると、一定の法則があることに気がつく。それらは、名称を付けるならば「不登校・ひきこもりの子を持つ親の病」である。
 この親の病には5つの特徴が挙げられる。ひとつめは「強迫観念的態度」である。当然の事ながら、親の関心は子どもの不登校やひきこもりの状態ということになる。四六時中その事が忘れられないという状態がこの強迫観念的態度である。
 ふたつ目は「二者択一的態度」である。親の選択肢が非常に狭くなっていて、学校に行くか行かないか。家にひきこもるかひきこもらないか。というふたつの選択肢しかない状態を指す。“学校の通学路を半分まで行けたら、それもいい。”とか“自室にひきこもっていても、食事の時だけ家族に会ってくれるからいい。”というような第三の選択肢がない状態がこれである。


 3つ目は「現状否定的態度」である。まず、問題の原因を自分の子育てにあると考えて、自分に徹底的に批判をする。あるいは、子の中途半端な状況に対して容赦なく否定をする。残念ながら現状否定からは何も生まれてこない。
 4つ目は「コントロール的態度」である。子どもへの過剰な世話焼きがこれにあたる。親自身が想定したように子どもが動くよう仕向ける行為がこのコントロール的態度で、お金をあげるから散歩に出かけておいてというようなことがこれにあたる。
 5つ目は「自他境界混乱態度」である。自分と子の人格が別々のものであるという意識がほとんどない状態がこれである。子どもの行動があたかも自分の行動のように感じている親の状態がこれである。


 
○親の病の回復にはグループミーティングが効果的

 実はこの「不登校・ひきこもりの子を持つ親の病」は、共依存の病とも言える。この両者の関係が強固に結びついて、親と子の関係が固着しているうちは、子どもには学校に行かないという選択肢が必要になり、ひきこもりの人には自室にひきこもるという選択肢が必要になる。
 楠の会の例会で行なっているグループミーティングは、この親の病に修正を加えるレッスンである。残念ながら、親の病を回復させるための教科書のようなものはない。法則を覚えて暗記すれば、親の病すなわち親の共依存的態度が治るわけではないのである。家族の問題解決に座学だけでは役に立たないという理由がここにある。問題解決のために、幾度となく講演会や講習会に足を運んでも、あるいは何冊もの本を読んでも、自分の行動修正にはなかなか結びつかないのである。
 行動修正のためのレッスンはグループミーティングに継続的に出席するに限る。同じような他者との出会いは、あなたの家族や生活全般を振り返るための鏡である。鏡を見て身だしなみを整えるように、グループミーティングでの出会いを通じて、他者の家族に自分の行為やこれまで気が付かなかった感情を探しだすのである。これは効果てきめんとしか言いようがない。
 先日もグループミーティングで、ひきこもりの子が家を出ていったというお話をメンバーから伺った。その親はとても驚いていた。しかし、ある日突然、子が変わったのではなく、ミーティングという鏡を通じて親自身がジワジワと身だしなみを整え、変わった結果がそれであるとしか言いようがない。


2011/09/07

ゼミで永田町を散策

今年の4月に、私の友人で埼玉県本庄市市議会議員の田中輝好氏にゼミで特別講義をしてもらった。「大人としての日本国憲法」と題して行ってもらったレクチャーは、ゼミ生にとても新鮮だった。

あれから4ヶ月。それでは、実際の日本の政策が組み立てられる現場を訪ねようということで、ゼミ生と東京は永田町を散策することになった。今回も田中氏に登場してもらい、憲政記念館にてレクチャーをしてもらった。

衆議院第一議員会館から望む首相官邸
 今回は、特別に衆議院予算委員会室も見学させていただいた。テレビで観る委員会室は広く感じるが、実際に訪ねてみると意外とコンパクトだった。

実際に、国の政策立案が行われている所を見ることで、学生には政治を身近に感じてもらいたいと願っている。


衆議院第一議員会館のオフィスにて

衆議院第一議員会館から国会議事堂を望む


旧議員会館からは望めなかった展望

衆議院予算委員会室を見学

衆議院予算委員会室

衆議院にて

国会自民党控え室

国会衆議院議長控え室

国会正面にて

ところで、国会の庭には各都道府県の県木が植えられているのをご存知だろうか。私の出身岩手県の木は”南部あかまつ”。どの都道府県も、天に届くような大木が植えられているのだが、福岡県の県木は横に広くつつじが広がっていた。

福岡県の県木”つつじ”が国会に植えられていた

津波で生き返った“ひきこもり”(―感情を共有・共感することの意味)

(福岡 楠の会 会報 9月号掲載)
四戸智昭

○東日本大震災の傷跡
 この夏、岩手県の沿岸部である三陸地方を訪ねた。三陸は、永い年月をかけて岩が侵食されたリアス式の海岸の景色が続いていることで有名な場所である。また、岩手県人にとって、夏の海水浴と言えば宮古市という町にある浄土ヶ浜が有名である。碧い海と白い石で敷き詰められた海辺は、まさにこの世の極楽浄土を表していることからこの名が付けられた。
三陸鉄道の鉄橋が崩壊した後
美しいリアス式海岸の景色や浄土ヶ浜は、3.11の津波で甚大な被害を受け、すっかりと変わり果てていた。三陸にある町は、津波で壊滅した町も多い。井上ひさしの小説『吉里吉里国』や、ひょっこりひょうたん島の舞台にもなっている大槌町は、まさにそのような壊滅した町のひとつである。人口15千人ほどの町だが、ここでは1,400人を超える人が亡くなったり、今もなお行方不明になっている。
また、宮古市の田老地区(旧田老町)は、明治29年の大津波以来3度も大きな津波に襲われている地域である。その度に多くの尊い命が奪われてきたことから、町は高さ5メートルほどの防波堤に囲まれている。津波への備えが万全であったつもりのこの町も、3.11の津波で全てが消えてなくなり、人口4千人ほどのこの町で、200人を超える人が亡くなったり、行方不明になっている。

○津波で生き返った“ひきこもり”
三陸にも、当然“ひきこもり”の人がその家族と一緒に暮らしていた。311日午後246分。大きな長い揺れがこの町を襲う。ひきこもりの生活になって10年を超えた30代半ばの男性は、長い揺れの恐怖を感じながらも、家を飛び出すこともなく戸建て2階の自室でひっそりと息を殺していた。
揺れが収まってしばらくした頃、男性に階下から、慌てた声で呼びかける母親の声がした。「津波が来る。一緒にお寺さ逃げるべ。」町中に、津波を知らせる防災警報のサイレンが鳴り響く。男性は小さい頃から防災訓練の度に、津波の恐怖は何度となく聴かされていた。しかし、自室を抜け出し、家を出ていくことがどうしてもできない。避難場所で出会ってしまうであろう近所や親戚の人たちの視線を考えると、恐怖で足がすくんでしまった。
息子を連れ出すことをあきらめた母親が、近くの山間にある寺にたどり着いたとき、それは襲ってきた。真っ黒い濁流と共に、多くの家々が潰れながらミシミシと音を立てて山に押し寄せてきたのである。本当に一瞬のことで、何が起きているか母親は頭の整理が出来なかった。
随分と時間が経った頃、母親は自分の家も津波に飲まれたことを理解した。家から連れ出すことの出来なかった息子は、2階の部屋に居たことが幸いだったのか、流された瓦礫の中から這い出てきた。母親とその息子は、今は仮設住宅で近隣や親戚の人たちに囲まれながら、仮設住宅地での防災や清掃活動といった役割を引き受け、ひきこもらずに暮らしている。
宮古市田老地区の津波被災後の風景
大きな災害が来て、町での暮らしが一変したときに思い知ることがある。快適さや便利さを追求した町づくりの一方で、ひきこもりのような弱い立場の人たちにとっては、住み心地の悪い町を作ってきたのではないかということである。
 安心できる居心地の良い場所、そしてその人が自分らしさを発揮できる役割があれば、ひきこもりの人たちは、自分だけの場所から出てくる。残念ながら、これまで私たちがしてきた町づくりや生活というのは、ひきこもりの人にとっては、ひきこもりやすい町づくりと生活だったのかもしれない。

○感情を共有することの意味
811日。震災からちょうど5ヶ月を迎えた東日本では、「ライトアップニッポン」と称したイベントが東日本の10カ所ほどの町で繰り広げられた。全国から集まった寄付金やボランティアの力を借りて、町中にはお手製の灯篭が並べられ、夜7時に犠牲者の霊の鎮魂のために全国の会場で一斉に花火が打ち上げられた。
静寂の中で打ち上げ花火の音だけが鳴り響いた
田老でも、かつて町があった場所に、高台にできた仮設住宅から被災者たちが集まった。建物の基礎だけが残った広いその町に、町民は各々腰を降ろして、静かに夜空に打ち上げられる花火を眺めた。
打ち上げられる花火の光に反射して、町中の人たちの頬は輝いていた。これまでじっと我慢していた悲しみの感情を、町中の人たちが共有した初めての時間だった。家族を失っても、葬儀さえままならなかった人たちに、やっと鎮魂の時が来たのである。こうやって、ありのままの自分たちの感情を共有しながら、この町の人たちは、また歩き始めるのだと思う。
 人であれば、誰かと繋がって生きていきたいと思っている。しかし、それがどうしても叶わない人がいる。人であれば、喜怒哀楽を感じる。しかし、それをありのままに安心して表現する時間と場所がない人がいる。でも、楠の会のミーティングは、あなたが誰かと繋がって、自分の思いを語ることができる場所である。また歩き始めるために、あなたも参加してはどうだろうか。






田老の街中に並べられた灯篭

2011/09/05

内閣府による「困難を有する子ども・若者の相談業務に携わる民間団体職員研修」にて家族会の話をします

内閣府では、青少年育成の施策の中で、困難を有する子ども・若者を支援する地域のネットワーク整備に取り組んでいる。

不登校やひきこもりの子どもたちは、この困難を有する子どもや若者に該当する。
ひきこもりは、内閣府の推計では、全国に約70万人いるとも言われている。

私は、この数字に”4倍の法則”という名のもとに、4倍をかけて、280万人ほどの人がひきこもりのことで悩み、苦しんでいると思っている。

ひきこもりの本人だけでなく、その母、その父、その兄弟は、ひきこもりの家族を抱えていることで、孤独や誰にも言えない悩みを抱えている。

私がここ数年取り組んでいる不登校やひきこもりの子を抱えた家族会は、そんな家族の孤独や悩みを癒し、家族が成長するための場所である。

ところで、この家族会の運営やすすめ方を、内閣府が主催する「困難を有する子ども・若者の相談業務に携わる民間団体職員研修」で講習することになった。

聞き手は、支援者。どんな内容にするかは、まだ詳細を決めていないが、この研修会は民間団体で不登校やひきこもりの支援をしている職員が無料で参加できるとのことである。開催地東京までの交通費や宿泊費も政府が負担するとのことであるから、政府がどれだけ力を入れているかがわかる。

関係するNPOの職員の方など、是非、参加してみてはどうだろうか。
なお、申し込み開始は本日から、定員になり次第締め切りとのことである。

http://www8.cao.go.jp/youth/bosyu/soudan/bosyu-6.html

2011/08/18

被災地宮古市田老地区を訪ねて

この夏、宮古市田老地区を訪ねた。東日本の大震災前に、何度も自家用車で通過していた町だが、田老を訪ねてみると、そこには見慣れた風景は一切なかった。

津波で階下部分が失くなったホテル

建物の基礎部分だけが残った町と防波堤
被災地を歩いていると、めまいがする。ちょうど、船酔いをしたような感覚である。
ひょっとすると、私たちは普段、人間が作り上げた人工物を目印に生活しているのかもしれない。建物の全てが失くなった町では、知らないうちに平衡感覚を失っていたのだろう。

学生には、この風景を実際の場所で見て欲しいと感じた。テレビや新聞で伝えられる津波ではわからないものがそこにはあるからだ。


とこで、被災地を訪ねてみて感じたのは、生き残った人々が、また同じ場所で暮らし始めるだろうかという素朴な疑問である。
おそらく、このような恐怖体験をした場所に、また暮らしたいと思う人はほとんど少ないだろう。PTSDに罹患した患者の多くは、命拾いした場所を避けようとする。それと全く同じことが生き残った人たちに起きているのではないだろうか。

実際、過日行われた調査では約7割の被災者たちが、津波が襲った同じ場所ではなく、高台などに暮らしたいと答えているという。

一刻も早く、町の人たちが自分たちの明るい将来を描けるような町づくりの青写真を示す必要があると思う。政府の高台移転政策と予算措置が早く講じられることを祈りたい。

2011/08/06

共依存という依存の理由


(福岡 楠の会 8月号会報 掲載)
 四戸智昭


○依存するのには理由がある

 人は、理由があってアルコールやギャンブルに耽溺する。耽溺している間は、仕事のストレスや人間関係のストレス、将来への不安、生育歴の忌まわしい記憶などはしばし忘却することができる。人は、そういった不安や抑うつ感を感じないようにするために、様々な防衛手段を講じる。
 とかく、アルコール依存やギャンブ依存は、その道徳的な側面ばかりが強調され、その人がどうしてアルコールやギャンブルに耽溺するのかという理由が表沙汰になることは極めて少ない。しかし、アルコールや覚せい剤などの薬物依存が戦争体験や震災などの自然災害の体験と関係がある。
 アメリカの研究では、ベトナム戦争を体験した帰還兵たちの中に、戦争の恐怖体験をかき消すために、アルコールや薬物に依存する兵士たちが、一般人口のそれよりも格段に多いことを指摘している。
 阪神大震災でも、生き延びた被害者たちの中に、アルコール依存症に陥った人が多いという研究がある。おそらく、この春の3.11で生き延びた被害者の多くにも、アルコールに耽溺してしまう人が多いだろうが、残念ながらそういったニュースが大々的に報じられることは少ない。


○共依存という依存症
 人への依存は、共依存と呼ばれる。アメリカの研究者で、共依存について研究しているピア・メロディという人は、表のように共依存の特徴を5つ挙げている。

表 ピア・メロディによる共依存の5つの特徴
1.   自己愛の障害     適切な高さの自己評価を体験できない
2.   自己保護の障害   自己と他者との境界設定ができずに、他者に侵入したり         他者の侵入を許したりする
3.   自己同一性の障害 自己に関する現実を適切に認識することが困難
4.   自己ケアの障害   自己の欲求を適切に他者に伝えられない
5.   自己表現の障害   自己の現実に沿って振る舞えない
出典:Pia Mellody "Facing Love Addiction"

 「自己愛の障害」とは、自分で自分を褒めてあげられないということである。いつも何か人の役に立つような行為をしていないと、自己評価が低くなってしまう人の事を言う。「自己保護の障害」とは、自分で自分のことを守れない人のことを言う。イヤな事をイヤだと伝えると、嫌われてしまうかもしれないと、イヤだという言わないのもこれに当たる。「自己同一性の障害」とは、言い換えれば自分の将来について語れるかということである。「10年後にはこういう私になっていたい」ということが共依存の人はなかなか語れない。「自己ケアの障害」とは、自分で自分にご褒美をしてあげられない人のことである。自分のためだけにお金が使えない。いつも家族のためが先行する人が来れに当たる。「自己表現の障害」とは、自分の欲求のままに振る舞えない人をいう。いつも他の人の欲望に敏感になりすぎていることを意味する。
 共依存という依存は、このように、他者に気に入られる必要があって、人の世話焼き行為をしたり、人に嫌われないように自己犠牲をいとわない人たちをいう。この共依存という依存をする理由も必ずあるはずである。
怖いことに、誰かの世話焼き行為をしているときは、アルコールやギャンブルへの耽溺と同じく、不安や抑うつ感をあまり感じないで済んでしまう。

○共依存と抑うつ感
 一所懸命に、何十年も夫や子どもの面倒を見てきた人が、その面倒を見ることから解放されて、ふと抑うつ感に襲われることは多い。その様子は、子どもが巣立ったあとの空っぽの鳥の巣の様子から「空の巣症候群」とも呼ばれるが、その抑うつ感は、これまで感じないように過ごしてきただけに過ぎない。
 せっかく抑うつ感を感じるようになったのなら、しばらくの間その抑うつ感と会話してみるのがいい。恐怖でまた誰かを世話したくなるかもしれないが、それはグッと抑えて、自分との対話を感じてみるのだ。
 ひょっとすると、自分の抑うつ感の原因に、自分の幼少期の母の思い出や、青年期の父との葛藤が思い浮かぶかもしれない。原因がわかれば、何も恐れる必要はなくなる。抑うつ感はやがて過去のものになるはずである。
 原因のわからない不安は、誰もが怖いもので、それを感じないように何かに依存してしまうが、それは大人の行為とは呼べない。大人なら、その原因を探ってみるために、ミーティングという場所に足を運んでみるのもいい。自分の共依存がどうして起こるのか?このミーティングで知った仲間もいる。
 ミーティングで自分を感じ、自分を語る。まさに、共依存からの回復には必要なプロセスがミーティングにはある。是非、例会ミーティングにお越しいただきたい。

2011/08/01

ひきこもりの元当事者とその母によるオープンミーティング

福岡県うきは市では、不登校やひきこもりなど、困難を有する子どもや若者の支援をうきは市の社会福祉協議会が行っています。

比較的小規模の市で、率先してこのような事業を行っている自治体は全国でも珍しいのではないでしょうか。

昨年スタートしたこの事業は1周年を迎え、徐々に支援サービスの認知度も上がってきていると聞いています。スタッフが忙しくなるというのは、複雑な心境ではありますが、苦しんでいる当事者やその家族が着実に支援に結びついていることの結果でしょう。

さて、7月23日には、かつてひきこもりをしていた20代男性のふたりと、その母が、ひきこもっていた当時の状況や心境について、赤裸々に語ってくれました。私はその会で、コーディネーターとして参加しましたが、4人の人たちはとても熱心に当時のことを語ってくれました。

比較的若いふたりの体験談は、現在ひきこもりで苦しんでいる若者たちに、勇気をくれたようです。

自分の経験を語ることは、シェアと言われます。先を行く仲間たちの言葉は、現在苦しんでいる人たちにとって、長くて暗いトンネルの先にある一筋の光になります。また、語る当事者にとっては、当時のことを改めて整理し、同じような状況に陥ることを避けるための予防線にもなります。

2011/07/08

家族を変える具体的な目標設定

(福岡 楠の会 7月号 会報より)

○専門家への期待と落胆
 あなたのように、不登校やひきこもりの問題で日々辛い思いをしていて、何とか状況を変えたいと思って、やっとの勇気を振り絞って市や県などの行政の支援窓口に電話するときのことを思い浮かべて欲しい。
あなたは、行政支援の窓口で相談にのってくれる専門家なら、きっと自分が抱えている問題を解決してくれるかもしれないと期待して、勇気を出して電話をすることだろう。しかし多くの場合、具体的な問題解決方法を示されないまま相談時間は終了し、ガッカリした思いに包まれるという経験をなさったこともこれまでにあったであろう。
相談電話をかけるまで、あなたは“ひょっとしたら、専門家に説教を受けるかもしれない”とか“ひょっとしたら、自分の子育てを責められるかもしれない”という不安を抱えながら自問自答を繰り返す。それでも、何とか現状を変えたくて、勇気を振り絞って専門家の支援を受けようとあなたが動き出したとき、あなたの心の中にはひとつの大きな期待が膨らむ「きっとこの問題を解決してくれるはず。」という期待である。
自問自答する時間が長ければ長いほど、この期待感は大きく膨らむ。そして、残念ながら、特効薬になるような解決策を専門家が示してくれないと、落胆も大きくなってしまう。



○家族を変化させるのはあなた
 私は、不登校やひきこもりの問題の解決に、速効性のある特効薬はないと思っている。しかし、解決しない問題もないと思っている。ただし、解決には時間を必要とする。人によっては、半年の人もいるであろうし、何年もかかる人もいる。
なぜかというと、不登校やひきこもりという問題が、その家族ダイナミクス(人間関係、家族の力関係のこと)に原因があるのなら、その家族のダイナミクスに変化が生じるためには、ある程度の時間を必要とするからである。



問題を抱えて苦しさの真っ只中にある人は、その解決を専門家に求めるとき、どうしても専門家への期待が大きくなってしまう。私はこれを“専門家に対する幻想”と呼んでいるが、この幻想が強ければ強いほど、専門家依存になってしまいがちで、家族のダイナミクスに変化を生むには、かえってこれが邪魔になってしまう。
家族のダイナミクスに変化を生むためには、その家族が問題を自覚して、主体的に変えようと願い行動することが何より重要である。家族を変化させるのは何よりあなた次第ということである。

○なかなか変わらない家族
 自分の家族を変えたいと願って、自助グループのようなミーティングに足繁く通われる人の中には、「なかなか変わらない。」という落胆にも似た言葉をよく耳にする。なかなか変わらないのは、実は家族の中に変わりたくないと思っている人がいるからである。変わりたくないと願っているのは、あなたのパートナーかもしれないし、ひょっとするとあなた自身かもしれない。それだけ、家族のダイナミクスというのは、一見しただけでは理解するのが難しい。
 それだけに、変化しようとしない家族に変化を生むためには、工夫が必要ということになる。家庭ではこれまで通りの日常生活を送りながら、月に一度のミーティングに通うだけでは、家族に変化はなかなか生まれないのである。
 もしあなたが「なかなか変わらない」と思っているのなら、是非ともあなたの家族の日常生活のパターンを変える具体的な目標を設定して欲しいと思う。



○家族を変える具体的な目標設定

 とある女性の方は、自分と夫との関係に、子どものひきこもりという問題が生まれた原因があることに気がついた。それまでその女性は、夫に子育てのことで気を煩わせまいと、子育てに関しては全て自分で何とか切り盛りしてきたという。夫は、ひきこもっている子どもを見ると、辛くなってしまうということもあり、家では子どもに顔を合わせないでいたという。結局、家族の中で、子どもと心の接触をするのは母だけになっていたということに、この女性は気がついた。
 その日から、女性は子どものことをできるだけ夫に相談するように心がけた。しかし、なかなか夫は心を開いて自分の話を聴いてくれようとはしなかった。それでも粘り強く、“今日の子どもの様子を一日1分だけ夫に語り続けた”。
 これが、この女性の日常を変える具体的な目標設定である。人によってこの目標設定は違う。大切なのは、“家族の日常に変化を生む”目標設定である。
 なかなか、難しくてわからないという方は、是非とも楠の会の例会ミーティングに参加していただきたい。ミーティングでは、参加者たちがこの具体的な目標設定を共有しあっている。他の家族の自覚や目標を聴くことは、専門家以上のパワーになる。

2011/07/01

変化を生むための具体的な目標設定

ひきこもりや不登校のお子さんを抱えた親御さんがよくおっしゃるフレーズがあります。
「毎日、毎日、変化がありません。変化がない毎日なので焦ってしまいます。」

変化がないというのは、家族関係の中にも変化がなくて、毎日同じパターンで過ごしているからです。

変化したいと思うのなら、意識的に変化することを考える事が重要です。
変化しないと言う多くの方が”目標設定”をしていらっしゃらないのです。

私は家族ミーティングの時、必ず参加者に質問していることがあります。
「半年後、どうなっていたいですか?」「そのために、あなたは今日から具体的に何をしますか?」
という質問です。

多くの親御さんが、より良い変化を求めています。例えば、「息子と一緒に外食してみたい。」とか「夫と、息子のことについて話し合えるようになりたい。」など。

そういう半年後になるために、今日から毎日玄関を掃除します。でもよいのです。より具体的な目標設定の方が、自分自身が意識して継続的に取り組むには重要です。

毎日変わらないと思うあなた。今日から旦那さんと毎日散歩に出かけてみませんか。
これで、随分と家族関係が変わるものです。

2011/06/22

インターネット依存の底付きは何か?

プロセスアディクションのひとつであるインターネット依存については、様々な場面で語られることが多くなった。

10年ほど前に、キンバリー・ヤング著『インターネット中毒』という本の邦訳がわが国で出版された当時、日本でインターネット依存の研究をしている人は皆無に近かったと思う。

今では、随分と語られることが多くなったインターネット依存であるが、お隣り韓国では、インターネット依存によって死者が出たり殺人が起きたりしている。

ところで、依存症からの回復には、底付き体験というターニングポイントが必要とされる。
アルコール依存の人なら、自分の飲酒の問題に気が付いて「自分ではどうにもならない。」という自覚のポイントがこの底付きと呼ばれる。

インターネット依存と同じプロセスアディクションのギャンブル依存では、借金取りに追い立てられたり、命を狙われたり、家族が一家離散したりというのが、本人の自覚を促すターニングポイントになる。

しかし、インターネット依存ではこれがなかなか難しい。最近では、ネット接続は従量制なので、接続し続けて、支払料金が大幅に増えるということがない。結局、ネット接続の多さについて、家族は気が付きにくくなってきている。

インターネット依存によって、健康を害するという底を待つのも、なかなか難しい。韓国で死者が出たのは、飲むことも眠ることもせずに、気がついていたら死亡というケースで、これでは底につくというより、底が抜けたという状態になってしまう。

結局、インターネット接続環境がある限りは、インターネットに依存し続けることになる。

では、インターネット依存の底付きは何か?

  • 学業がおろそかになる。
  • 睡眠不足になり寝坊する
  • 無断欠勤をする
  • 友だち付き合いが少なくなる


等の派生的な問題発生が、本人の自覚に繋がることを望むしかないと思うが、ギャンブル依存のように、命を狙われたりというような生命の危険にはなかなか直結しにくい。

結局、インターネットがそこにある限り、そして、ネットに依存しなければならない理由がある限り、ネット依存者はネットに依存し続けるだろう。

2011/06/14

「怒り表現」(必修科目)の開講を提案

このところ、毎年1年生に、”インターネット問題”のお題を出している。
「インターネット関連の問題なら何でもよいので、探してください。」というお題である。

毎年取り上げられる問題に、インターネットを利用したいじめの問題が取り上げられる。
つい半年前までは高校生だった彼らが取り上げる課題だから、おそらく自分たちも見たり聞いたりした
実際の経験から、この問題が取り上げられるのかもしれない。

ネットいじめに関して、近年随分と関連図書が出版されるようになった。
それだけ、中学校や高校の教育現場では、深刻な問題なのだろう。

これは、大学一年生の教養演習を受講するとあるグループの企画書。

中学生のインターネット上での誹謗中傷を減らすための具体的提案を、学校の先生にします。という企画だ。

なかなか興味深い企画書だと思う。再来月頃には、その具体的な提案を紹介できると思うが、

様々な図書でも、またこの学生たちの企画書でも、ネットでの誹謗中傷が問題で、それを解決しなければならないという論点が随分と多い。

どうして、今の中学生が、あるいは高校生がネットでの誹謗中傷という加害行為を必要とするのか?という視点に若干欠けているような気がする。

ネットでのいじめ(誹謗中傷)に限らず、いじめをする加害者の心理はとても似ている。

水が高いところから低いところに流れるように、加害者の怒りという感情も、加害者が誹謗中傷してもしっぺ返しを喰らわないところに向かって感情が向けられる。

怒りがどこから湧いてくるのか?これは、加害者の学校生活だけに原因があるわけではない。家庭生活はもちろん、学校生活、塾、友だち、。。。。

彼らが、これらの関係の中で、無理な自分を演出するとき、その演出が報われない時、怒りが沸き起こる。

問題なのは怒りの感情ではない。怒りをどうやって表現するかである。

学校に限らず、家庭生活でも、友だち関係でも、適切な怒り表現のトレーニングをした方がいい。

そういえば、高校生は「国語表現」という科目があるらしい。これと同じで、「怒り表現」という科目を授業の中に設定してはどうだろうか。

2011/06/08

なぜインターネット依存になる必要があるのか?

インターネット依存については、学生も興味をもつテーマである。
学部の一年生が教養ゼミで研究するテーマにも、インターネット依存がテーマに挙がっている。
彼らは、丁寧にインターネット依存が引き起こす具体的な問題を挙げていった。


例えば、
インターネット依存が原因で夫婦間のコミュニケーション時間が減り、離婚につながることが問題。
インターネット依存により、学生の学習時間が減少するため成績低下を引き起こすことが問題。
インターネット依存によって、社会人の仕事に対する意欲が低下することが問題。
インターネット依存によって、家族や友人とのコミュニケーション不足を引き起こすことが問題。

などなど、インターネット依存による問題を挙げていくと枚挙に暇がない。

ところで、いつも思うが、依存による問題を挙げていくのは、あまり重要なことではないと思っている。

重要なことは、「どうしてインターネット依存になる必要がその人にあるのか?」である。
上記の例で言えば、

夫婦での対面を避けるために、インターネットを利用しているに過ぎない可能性がある。夫婦でコミュニケーションを取ってしまうと、離婚せざるを得ない。離婚すると、子どもに悪影響があると考えている夫、あるいは、離婚すると家をでなければならないと考える妻にとっては、インターネットに依存するのは、むしろ好都合ということになる。

学生にとってみれば、一所懸命勉強したところで、希望の就職先に内定がもらえるというのはなかなか厳しい現実である。現実を見つめるくらいなら、インターネットの仮想現実の社会をさまよっている方が、精神安定にはちょうどいい。

なぜ、○○依存になる必要がその人にあるのか?これは、あらゆる依存を考える際に必要な視点である。

2011/06/03

簡易浄水器の威力と使い方にびっくり

筑豊や北九州では、無人で有料の給水所が峠の側や、おせんべい屋さんの店頭にあるのだが、
毎週のように、大きなプラスチックの容器を抱えて、水を汲んでいる人を見ると、
あの気力と体力に驚いてしまう。


職場の研究室の水道水は、あまり美味しいとは言えないというのが本音。
しかし、給水所で水を汲んでくるとか、ましてやペットボトルの水を購入して、
毎週それを持参するという気力も腕力も私にはない。

そこで気になっていたのが、ニトリの店頭に置いてある簡易浄水器。


ポットの上の部分に800ccほどの水を入れると、
5分位で下の部分に浄水された水が落ちてくる仕組み。
下の写真は、水の浄水が終わって、下に落ちたところ。

このようなシンプルなもので、水が美味しくなるのか?と疑念で一杯だったが、一念発起して購入。
その性能に驚いて、喜んでいる。なかなか、美味しくなる。

2400円でこれだけ美味しくなるなら満足。ただし、フィルターのカートリッジは約3ヶ月で交換しないといけないらしい。まあ、給水所で水を汲むとか、ペットボトルの水を購入するよりはずっとリーズナブルかも。


とても嬉しいので、研究室で勉強するゼミ生にもその喜びを表現して、ゼミ生にも早速利用するように勧めている。

私の喜びに、耳を傾けたゼミ生が早速使っているようだったが、先日驚いてしまった。








ポット一杯の水。
これじゃ、浄水された水が落ちていかないよ。これじゃあフツーのポットでしょう。

浄水器の性能に感動していたのは、実は私だけだったのかもしれない。

2011/05/30

フツーに学校を卒業させ、イッパンテキな会社に就職させるという母の役割

不登校の子を抱えた保護者のためのミーティングを福岡県立大学で行っています。
毎月第四土曜日の14:00~90分間。同じ悩みを抱えた親たちが集います。

5月の定例のミーティングでも、親たちの様々な思いが吐露されました。
ミーティングでは、家族や友人にも言えない悩みや怒りを表現することが大切です。

とある母から「子どもに優しくすると、優しすぎると批判される。厳しくすると、厳しすぎると批判される。とかく、子育ては難しい。」というコメントがありました。

イクメンなどという言葉が登場して、男性の子育てが注目を浴びる昨今ですが、どうしても雑誌やテレビの流行り言葉にしか聞こえません。
男性の子育てがファッションとして捉えられているうちは、まだまだ子育ては母親の大切な役割だという暗黙の強制があるように思います。

この不登校の子を抱えた母親の嘆きがそれを見事に表現しているように思います。
現代の”子育て”という言葉には、子どもを風呂に入れたり、食事を与えたり、公園に散歩に連れていったりという意味以上のことが込められていて、その責任を母親に取らせているという意味です。

どんな意味が込められているかというと、「当り前のように学校に行かせ、フツーに高校・大学を卒業させ、イッパンテキな会社に就職させ給料をもらう生活ができるようになる。」までがこの”子育て”という言葉に込められているように思えてならないのです。

そうすると、当り前のように学校に行けない子を持つ母は、その子育てを責められるわけです。
母の中には、この子育ての役割を背負って、疲弊している人たちもいます。


本田和子著『子どもが忌避される時代』(新曜社)では、明治時代以降、わが国では、女性たちに母の役割を押し付けてきた政府と男性社会について、見事に分析しています。

実は、「子どもは母が育てる」という考え方は、たかだか、ここ100年程度の歴史の中で作られてた考え方に過ぎないということなのです。

明治以降、江戸時代までの身分制度が廃止され、誰もが立身出世を求める時代になりました。いつしか”故郷に錦を飾る”ために、女性が子育ての役割を担うことになってしまったというわけです。

現代社会においては、子育てに込められたこの言外の呪縛から解き放たれるのは難しいようです。

不登校やひきこもりのミーティングの場にいらしていただくと、”子育てが、いかに女性の役割として押し付けられているか”を知ることができます。

ミーティングの場に足を運ぶ親たちのほとんどが母親である女性だからです。





2011/05/27

”腐ったものを故意に食べる”という痩せ願望行為

ゼミの学生たちが、卒業論文の研究テーマについて考えている。
昨日は、お互いの問題意識を共有しながら、ディスカッションを繰り返した。

各々、生活しながら”○○が△△なときに、××であることが問題だと思う”という
メモを持ち寄る。

問題意識というのは、机に向かって思い浮かべるようなものじゃない。
普段の生活をしながら、ふとした瞬間に、頭に浮かぶもの。
だから、いつもそれを意識して、メモするというのがここ2週間ほどのゼミの課題だった。

色々と問題意識が上がった。
中でも、結構あったのは、
”最近の若者の言葉遣いや目上の人に対する態度が問題”
なんでも、学生たちの周囲には、目上の人にため口で話しかける後輩が多いのだとか・・・・。
大学のサークルなどの後輩ではなくて、バイト先の後輩らしい。

色々あった中でも、驚いたのは、
”痩せ願望が強い女性の中に、腐ったものを故意に食べてお腹を壊し痩せようとすることが問題”
えええっ!、下剤や浣腸で無理に痩せようとするという話は知っていたが、腐ったものを食べるなんて。命がけのダイエットに驚かされた。過食嘔吐のスタイルも時代とともに変わるのかも。

さて、あと1週間ほど経つと、学生たちの中で問題意識が発酵して、面白いことになるだろう。

2011/05/23

”失敗してはいけない”という強迫観念

ひきこもりの子を抱えた親のミーティングのコーディネーターをしています。
ひきこもりの問題そのものの解決というより、親が自身の悩みを他者と共有することで、
親自身が気がつかなかった親の問題に気がついたり、その問題を解決するための会です。

福岡の楠の会というひきこもりを支援するNPOで、毎月の定例会(第四日曜日)でこのコーディネータをしているのですが、今月5月は、それが29日の日曜日だと思い込んでいました。

のんびりと日曜日の夜を楽しんでいましたら、”今日はどうしたのですか?”と事務局からのメールを頂き、驚いてカレンダーをみると、何と5月の日曜日は第五日曜日まであるではないですか。
気がついたときは、とっくに例会は終わった時間でした。

うっかりして、参加者の皆さんにとんでもない迷惑をおかけしてしまいました。本当に申し訳ないです。

ところで、不登校のことで悩んでいる親御さんの中には、驚くほど完璧主義な方がいらっしゃいます。
そのような親御さんには、「失敗してはいけない」という強迫観念があるようで、それが自分だけの事だったら、まだよいのですが、子どもにも「失敗させたくない」という気持ちがとても強い。
結局、そのようなお子さんは、「失敗するくらいなら何もしない(学校に行かない)。」という選択をしてしまう。

ときに失敗して、私はせいぜいこんなモンです。笑えることができればよいのですが。厳格な家族の元で育った母というのは、「こんなモン」というのが、一体どのようなものなのかすらわからない。

これこそ、家族の問題が世代を超えて連鎖して、現代で不登校という問題として現れた家族機能の問題と言えます。不登校ばかりに目がいって、母の完璧主義や、母の子ども時代の強迫観念に気がつかないと、それこそ、”木を見て森を見ず”です。

そういった方にこそ、家族ミーティングに参加して、”自分で自分の完璧主義な親像を発見して、それを捨ててしまう”ということが必要です。

不登校の子を抱えた親御さんのミーティングは、毎月第四土曜日の14:00から福岡県立大学で行っています(参加費無料)。ご興味のある方は、是非ご連絡をください。

2011/05/19

飛行機が飛ぶという幻想

飛行機はどうして飛ぶのか?


JALに搭乗すると、機内で読める雑誌がある。
JAL SKYWARD がその機内誌。

中でも、浅田次郎氏のエッセイがとても面白い。

もちろん、他にも面白い記事があって、機長のコラムは、飛行機のことや、気象のことなど、パイロットの重要な知識をとてもやさしく解説してくれている。

確か、2010年の11月号だったと思うが、飛行機がなぜ飛ぶのか?というのが、実は空気力学でもベルヌーイの定理でも、完全に説明できないというコラムがあった。

説明できない乗り物に乗っているのかと思ったら、ちょっと青ざめて、窓から外界を見下ろした。
そのとき、私は関西上空を確かに飛んでいたと思うが、それは単に飛んでいたつもりだったのかもしれない。

ひょっとすると、出張で出かけた東京は、そこが東京だったと思い込んでいただけかもしれない。ひょっとすると、ここに生きているというのも、幻想かもしれない。

2011/05/18

名前がついてしまうという不幸

未知なる状態や存在が人々に意識されるようになると、その意識を共有化するために、その未知なる状態や存在に名称が付けられる。
名称が付けられると、それらの未知なる状態や存在は、未知なるものではなく、既知なものとして人々に共有化され、認識されるようになる。

「ひきこもり」という名称もまさにそれで、「ひきこもり」という名前がなかった頃は、外部とのコンタクトを一切排除して、部屋でTVゲームばかりしている青年に対して、世の中の多数はそういった人が存在することすら知らなかった。

一部の人たちが、そういった青年たちの存在に気がつき”一体、何が起きているのか?”というのが、最初の彼らの感想だった。

ところが、90年半ばなって、こういった青年らに「ひきこもり」という名称が付与されることになる。そうすると、一気に無名の青年たちの存在に社会の関心が向けられるようになった。関心が向けられると、ひきこもりという状態があたかも良くない状態であり、治療すべき対象のように認識される。

また、「ひきこもり」という名称の登場で、他の大切なことが霞んでしまうこともある。
あるひきこもりの青年は、父親がDVの父で、いつも強権的な父親だった。家族が文句しようものなら、すぐに殴られる。結局、母親はその家を出ていってしまった。このような家族では、その青年がひきこもるのは、当然の自己防衛の行為。しかし「ひきこもり」という名前が登場して「ひきこもり」に焦点が当たってしまったことで、暴力的な父は霞んでしまった。

”ひきこもり病”という病気はないのに、全てのひきこもりを治療し、無くそうとするような風潮が残念ながらある。

ひきこもるという状態は、そもそも意味がある行為だと思う。自分を守るために、ときにひきこもるという状態はとても大切な行為。彼らの扉をあまりノックしすぎると、彼らの大切な防御を壊すことになる。

名前のないものに名前を付けようとするのは、人の性なのかもしれない。しかし、その行為自体に、人を不幸にしてしまう要素があるということを、忘れてはいけない。

ストーキングというプロセスアディクション

女子大学生が大学内で切りつけられるという事件が起きた。
2011年5月18日 朝日新聞 女子大生ら刺した容疑 神戸学院大卒業生逮捕

大学という場所で、このような事件が起きてしまうのは、人事ではない。

記事によると加害者は、女子学生の元交際相手で、この春に同大学を卒業して就職し、埼玉に移り住んだという。女子学生とは3月に別れたが、その後も「一人ではやっていけない」というメールや電話を繰り返し、東京に来るよう迫っていたという。

いわゆるストーカー事件だが、ストーキングという行為は、プロセスアディクションである。
対象者から見捨てられるのではないかという不安から、その対象にしがみつく行為である。

ストーキング依存は、それが悪いこととわかっているのにも関わらず、ストーキングしてしまう依存症であり、その病理の中核には、対象のことがいつも忘れられないという”強迫観念”がある。また、対象を意のままにコントロールしたいという欲求もこの病理の中核である。

プロセスアディクションの代名詞としては、ギャンブル依存症(Pathological Gambling)がある。四六時中、ギャンブルの事が頭から離れず、ギャンブルをするための金が欲しいために、借金をしたり、人を騙したりする。

ストーキング依存というのも、これと同じで「警察の接近禁止命令が出ているから止める」という単純なものではない。対象の事がいつも忘れられない。対象が離れてしまうと思うと不安が募る。結局、違法行為や迷惑行為をしてまで、対象をコントロールしようとしてしまう。

警察の対応は口頭での厳重注意と誓約書の提出というが、これらの対処はストーキング依存の人にはほとんど意味をなさないと思われる。ストーキング行為に対する治療命令が出ていたらこのような事件を防げるのではないかと切に思う。

2011/05/10

人生の棚卸し

(福岡楠の会 ひきこもりの家族会 2011年5月号)

福岡県立大学大学院看護学研究科 四戸智昭

○回復の場所へ夫婦で登場することの重要性

 前回のエッセイでは、治療や回復の場所に父が登場することの重要性について紹介した。家族がひきこもりという問題を抱えているのなら、精神科や心療内科のカウンセリング、あるいは家族ミーティングのような自助グループの場所に、母(妻)だけではなく、父(夫)の登場が欠かせない。
 このことは、ひきこもりの当事者本人が治療の場所に登場するよりも、夫婦揃って治療の場所に登場することの方が優先するとまで思う。特に、ひきこもりや不登校の直接的なきっかけが、本人の疾病や障害に由来しないのなら、なおのこと家族関係の見直しが重要になる。
家族関係の見直しという作業は、母(妻)独りでできるものではなく、夫婦での登場が必要になる故、父のリーダーシップについて語った。しかし、回復の場所で、父や母が何をするのかについては、紹介していなかった。今回は、家族ミーティングという場所で、父や母が行う“人生の棚卸し”について話題をすすめていきたい。



○恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行なうということ
 アルコール依存症から回復すするための自助グループA.A.(アルコーリックス・アノニマス)は、自助グループ(当事者だけの回復のためのグループ)の原型を作ったとも言われる。

表 A.A.の回復のための12ステップ
1.   私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
2.   自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
3.   私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
4.   恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
5.   神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
6.   こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
7.   私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
8.   私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
9.   その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。
10.  自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。
11.  祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。
12. これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージをアルコホーリクに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。
 
 彼らは、ミーティングの開始冒頭、アルコール依存症から回復するための「12ステップ」という言葉を唱和する。ご存知の方もいらっしゃると思うが、対して長い文章ではないので、ここに全文を紹介したい。

この回復のための12ステップには、アルコール依存症という病気からの回復だけでなく、他の依存症問題(ギャンブルやショッピング)、あるいは、お酒を飲まないが自己中心的な人の病気(ドライ・ドランカーの病)や、人間関係の依存(共依存症)からの回復にも重要なメッセージが込められている。
紙面の都合、全文の解説をすることは、今回は割愛するが、第4番目のメッセージ「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。」という言葉は、家族ミーティングに参加する参加者たちにも、とても重要なメッセージと言える。





○人生の棚卸しをするということ
 家族ミーティングの場で、あなたがすべきことは、「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行なうこと、さらにそれを表にまとめること」につきると思う。自分がどのように妻や夫に接してきたのか、あるいは息子や娘に接してきたのか。それを振り返り、自分に非があることを素直に認めることは、とても大変な作業である。
まして、その事をミーティングという場所で他者に告白するのであるから、この作業には大変な痛みが伴う。単に、“ごめんなさい”と懺悔すればよいというのではない。もし、かつて自分が家族の中で自己中心的に振舞っていたのなら「その態度を反省し、二度と同じようなことをしない。」という宣誓がこの第4番目のメッセージである。
不幸なことに、自己の振る舞いや考え方というのは、自分ではそれに非があると気が付きにくい。だから、私たちは家族ミーティングという場所で、他者の話に耳を傾けるのである。
他者の話の中に、実は自分が登場していることに気がつくようになると、あなたの“聴く耳(リスニング)”能力が着実に付いてきたとも言える。ミーティングの場所で、その事(気づいたこと)を告白することも重要である。
これが、人生の棚卸しという作業である。何度も言うが、棚卸しの作業は、懺悔の繰り返しではない。将来に向かって、私が具体的にこのように変わりたいという宣言もここに含まれる。
このように、人間を成長させてくれるチャンスが家族ミーティングには眠っている。そのチャンスを掘り起こすのは、他でもなく、あなたとあなたのパートナーの作業である。



2011/04/27

4月の楠の会家族ミーティング

4/24の福岡楠の会家族ミーティングには、18名(男性3名・女性15名)の方々が参加してくださいました。

例会のミーティングは、13:30~16:30ですが、それでも参加者全員にコメントを発表してもらうには時間的余裕がないので、最近は毎回、希望者に最近のエピソードを発表してもらっています。

会の進行については、前半に自由な意見の発表の場です。後半は、全員に一言ずつ、半年後の自分をイメージして、どうなっていたら嬉しいのか?そのために、今日から具体的にどんな課題を設定するのかをお話いただいています。

今回は、私のエッセイ「父の役割とは何か」にご意見を頂きました。
(ご意見)
「父の役割をクローズアップしすぎると、自己中心的な夫は、ますます自己中心的になってしまう。そのことで、かえって妻である私が苦労する。アルファとしての父など、我が家にはいてくれると困る。」ということでした。

なるほどと、お聞きしました。
私が父の存在について、前回のエッセイで触れたのは、家族の課題を解決するのに、父(夫)抜きの状態では、回復が得られないということ、そのために、どうしても回復の場所に父(夫)が登場して、父(夫)が率先して回復のためのイニシャティブを取らないといけないということです。(単に、父がリーダーとしてその家にいれば良いということではありません。むしろ、アルコーリックのような自己中心的な父は、存在してくれない方がよいでしょう。)

その回復という場所で、父(夫)が何をするのか?ということに、あまり触れないでエッセイを終えてしまっていましたから、誤解が生まれたのかもしれません。

回復という場所で、父(夫)がすべきことは、これまでの生活を振り返り、自己の振る舞いについて見直すことです。

A.A.(アルコーリックス・アノニマス)では、これを「人生の棚卸し」という言葉で表現しています。

自己中心的な父(夫)、存在しなさ過ぎる父(夫)、存在しすぎる父(夫)、いずれの父(夫)の場合も、回復の場所に登場して、自己の振る舞いを見直していただく必要があります。

このことについては、次回5月号のエッセイで触れたいと思います。

ミーティングメンバーの方の畑で収穫された夏みかんを頂きました。
甘酸っぱい良い香りがしました。