2011/04/27

4月の楠の会家族ミーティング

4/24の福岡楠の会家族ミーティングには、18名(男性3名・女性15名)の方々が参加してくださいました。

例会のミーティングは、13:30~16:30ですが、それでも参加者全員にコメントを発表してもらうには時間的余裕がないので、最近は毎回、希望者に最近のエピソードを発表してもらっています。

会の進行については、前半に自由な意見の発表の場です。後半は、全員に一言ずつ、半年後の自分をイメージして、どうなっていたら嬉しいのか?そのために、今日から具体的にどんな課題を設定するのかをお話いただいています。

今回は、私のエッセイ「父の役割とは何か」にご意見を頂きました。
(ご意見)
「父の役割をクローズアップしすぎると、自己中心的な夫は、ますます自己中心的になってしまう。そのことで、かえって妻である私が苦労する。アルファとしての父など、我が家にはいてくれると困る。」ということでした。

なるほどと、お聞きしました。
私が父の存在について、前回のエッセイで触れたのは、家族の課題を解決するのに、父(夫)抜きの状態では、回復が得られないということ、そのために、どうしても回復の場所に父(夫)が登場して、父(夫)が率先して回復のためのイニシャティブを取らないといけないということです。(単に、父がリーダーとしてその家にいれば良いということではありません。むしろ、アルコーリックのような自己中心的な父は、存在してくれない方がよいでしょう。)

その回復という場所で、父(夫)が何をするのか?ということに、あまり触れないでエッセイを終えてしまっていましたから、誤解が生まれたのかもしれません。

回復という場所で、父(夫)がすべきことは、これまでの生活を振り返り、自己の振る舞いについて見直すことです。

A.A.(アルコーリックス・アノニマス)では、これを「人生の棚卸し」という言葉で表現しています。

自己中心的な父(夫)、存在しなさ過ぎる父(夫)、存在しすぎる父(夫)、いずれの父(夫)の場合も、回復の場所に登場して、自己の振る舞いを見直していただく必要があります。

このことについては、次回5月号のエッセイで触れたいと思います。

ミーティングメンバーの方の畑で収穫された夏みかんを頂きました。
甘酸っぱい良い香りがしました。

2011/04/25

4月の家族交流会

福岡県立大学の不登校・ひきこもりサポートセンターでは、毎月第四土曜日の14:00~16:00の間、不登校やひきこもりの子を抱えた親のための自助グループを実施しています。(参加費無料)

この会は、家族交流会と呼ばれる会で、参加者たちは、思い思いの気持ちをここで吐露していきます。

会の重要なルールは、
言いっぱなし、聞きっぱなし。
誰かから説教を受けるのでは?と思ってしまうと、本音が語れなくなってしまいます。ここでは、どんなことを話しても、誰もが受け入れてくれます。そうすることで、悩んでいるのは、「自分だけではない」仲間がいるという安心感を持つことができます。

次のルールは、
ここで話したことは、ここに置いていくというルール。
とてもプライベートなお話をされる方もいらっしゃいますから、守秘義務を徹底しています。これも、このミーティングの場所を安心出来る場所にするための重要なお約束。

今回は、5名の参加者。新しい方も2名いらっしゃいました。「子どもの変化ではなく、私(親)が変化することがとても大切なこと」という参加者のコメントが多かったように感じました。
日々、自分が変わるための具体的課題設定がこれからの目標かもしれません。

【会の終わりのミニレクチャーから】
今回は、自分が変わるという意味について、お話ししました。
「不登校の子が変わることを求めるのではなく、その子の親が自分で気づいていない”暮らしの中の繰り返しパターン”を自覚して、それを変えようとするとき、親であるあなたが変わり、そして家族が変わり始めます。」
というテーマで、具体的な事例をあげて紹介しました。


ご興味のある方は、次回の家族交流会に是非ご参加ください。
次回は、5/28(土)14:00~16:00です。
場所は、福岡県立大学1号館 不登校・ひきこもりサポートセンター
不登校・ひきこもりサポートセンター入り口



2011/04/22

大人としての日本国憲法

4月20日の卒論ゼミでは、ゲストティーチャーに田中輝好氏に登場してもらった。
氏は、法制史が専門の埼玉県本庄市市議会議員で、大切な友人である。

学生たちが学ぶことの意味、卒業研究に取り組むことの意味を、日本国憲法の前文から解りやすく解説してくださった。

(日本国憲法前文)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


正義って何だろう?ウルトラマンや桃太郎は正義の味方?
当たり前に思えていることも、論じる視点を変えると、全く違う事実に見えてくる。
これは、卒業研究を取り組むときにおいてとても重要な視点。

自由と平等って?自由で平等って、聞こえはいいけど
それを守るための不断の努力って?誰がするの?
今、全国で選挙が行われているが、学生たちの意識が大きく揺さぶられるような講義だったようだ。

統一地方選挙で卒論ゼミ生の選挙応援をする田中氏

2011/04/15

共依存と養育体験に関する研究

拙著「共依存の構造とスケールに関する研究」(アディクションと家族,14(4),)については、たまにスケール利用について、許諾を求められることがある。
数量化されたスケールの重み付けが必ずしも一次元尺度構成になっていない項目があるので、未熟なスケールなのだが、利用していただく研究者には感謝の気持ちで一杯である。

そのような中、過日、小崎由香里氏より「過去の養育体験と共依存、抑うつとの関連」という修士論文の研究成果を頂戴した。上述の共依存スケールを用いた研究だが、非常に示唆に富む結果を頂戴したので、その一部を紹介したい。


●共依存と抑うつの弱い正の相関
-共依存傾向が高くなると、抑うつ傾向が高くなる傾向があった。
【感想】
特定の人物に対して共依存している状態であれば、つまりその人に依存的になっている状態であれば、自らの抑うつ傾向はむしろ弱まると考えてよいと思われる。(共依存の人は、万年抑うつ状態はとは考えにくい。抑うつを解消するために、誰かに依存していると考えるとわかりやすい。)
何かに依存している最中は、セルフに対する気づきは弱まり、抑うつ傾向は弱まるのではないか。
この点、共依存スケールは、誰かに依存的になっているか?なっていないか?の定点的なデータを収集して作成していないので、今後の検討が必要であると感じた。

●共依存傾向と養育体験の関係
-共依存傾向は、「拒絶」「兄弟ひいき」「情緒的あたたかみ」との関連があった。
【感想】
人を求めずにはいられないという共依存的特徴は、親からの拒絶や兄弟間の差別によって生み出されることを示した結果だと思う。親からの無条件の愛情が得られないことにより共依存傾向は強まるものと思われる。

2011/04/11

教科書の表紙デザイン変遷

たいてい、どこの大学にも大学1年生には、基礎ゼミという科目が設定されている。
大学での勉強の仕方や、本の探し方、インターネットの使い方やレポートの書き方、グループ学習の方法を学ぶ演習科目である。

福岡県立大学にも、基礎ゼミの「教養演習」という科目が1年生の必修になっている。
実は、5年ほど前に全学共通の教科書を作ろうということで、この教養演習の教科書作成が始まった。

「大学のセンセイというと、デザイン力や情報伝達力に欠けるのではないか」という内外からの指摘もあり、4年ほど前からは、デザインや編集に学生編集委員が携わってくれるようになった。

教科書の中身は、図書の検索の仕方や引用のルールなど、大学でのレポート作成やプレゼンテーションに必要な事柄が書かれている。

この教科書の中身にあまり意見は出てこないが、表紙のデザインには毎年、様々なご意見を頂く。今年のデザインは、学生イラストのコラージュで明るさを表現。編集担当のひとりとしては自画自賛している。




せっかくなので、共通テキストが発行されてからのデザインを紹介しよう。

 初回2007年版の表紙デザイン。このときは、教員だけでデザインしたので、とってもお堅い表紙になってしまっている。
2008年の表紙デザイン。
学生がデザイン編集に参加してくれた最初の表紙。
ずっと表現が優しくなったが、デザインを考えたのが真冬で、春出版ということを忘れてしまっていた。










2009年版の表紙デザイン。
春らしさも出たのではないかと学生たちと微笑んだ。












2010年版の表紙デザイン。
昨年までの表紙に、あまりリアクションがなかったので、インパクトのある唐草模様に。しかし、とても不評だった。

父の役割とは何か

(福岡楠の会 ひきこもりの家族会 2011年4月号)

福岡県立大学大学院看護学研究科 四戸智昭

○父の存在について考える
 前回のエッセイに引き続き、「家族の中の父の存在」について考えてみたい。
 家族の中に父の存在があるということは、単に父も一緒に生活しているという世帯構成を指しているのではない。その家族が一集団として生活していく上で、父がその家族のリーダーとして存在しているか否かということが重要である。
 こう話すと、「シングルマザーの家庭は父がいないではないか。」という指摘もあるかもしれない。私がここで言う“父の存在”は“父の役割”の事であって、生物学的な男性を指しているのではない。だから、母親となる女性がときに“父の役割”をその家庭で担っているのなら、その家族は一集団としてひとつの調和を持った家族だと思う。


○アルファという意味
 父の役割は、リーダーシップに尽きるというのが私の意見だが、わが国の首相や官房長官のようなリーダーシップの取り方もあるので、この言葉はときに誤解が多い。そこで、父の役割についてもう少し丁寧に説明を加えたい。
 


 私事だが、先日、春休みを利用して、大分にドライブに出かけた。別府には、高崎山というサル公園があるのをご存知の方も多いことであろう。私はここで飼育員たちから餌をもらうサルの群れを観察するのがとても大好きなのである。
 先日は、B群と称される549匹のサルの群れが里に降りて高崎山の自然動物公園を占拠していた。群れの中のオスザルには、見事なまでにしっかりと序列が決まっているそうで、トップのオスザルの名は、タイガー。二番目は、マコトという名のオスザルであった。
ところで、霊長類学者たちは、トップのサルを単なるボスザルとは呼ばない。とある一群の、数匹だけの群れの中でも、そこでトップであれば、それはボスザルと呼ばれる。そうなると、549匹もの群れの中には、ボスザルが沢山いることになってしまうので、群れの本当のトップのサルは、ギリシア語で一番という意味のα(アルファ)オスと呼ぶとのことであった。

○領域の侵害を許さないという徹底した態度
 高崎山では、毎日、飼育員たちがサツマイモや麦を彼らに与える。サルたちの餌への執着した行動には目を見張るものがある。リヤカーに山のようにあったサツマイモは、ものの10秒足らずで無くなってしまう。子ザルから年寄りのサルまで、観光客の存在などお構い無く、彼らは手に抱えられる限りのサツマイモを奪い合う。
 
 しかし、この時、実は彼らの中の序列というルールは徹底している。ある一群の中でも、その中のボスザルの領域を犯して子ザルがサツマイモを取ろうとすると、ボスザルは徹底して、子ザルからサツマイモを奪い返す。その様子は、本当に容赦がない。ボスザルは、子ザルを掴んで力いっぱい投げ飛ばして、サツマイモを奪い返す。おそらく、こうやって、彼らは自分たちの群れの中に序列というルールがあることを学ぶのだと思う。なぜ、徹底した序列というルールがあるのか。それは群れが絶滅しないためである。

○αとして領域を支配するということ
 ひるがえって、あなたの家族という群れの中には、本当のトップ、αとしての父が存在しているだろうか。母と息子と娘の三人がいるときのボスが息子で、母と息子と夫の三人がいるときのボスがやはり息子、はたまた夫と妻のふたりがいるときのボスが妻で、というようにはなっていないだろうか。
時々、そのような形で家族のリーダーが代わることはあるかもしれない。しかし、あなたの家族全体をα(一番)として統括するのは父の役割である。
また、αとなる父は、自分の家の中であなたの領域を意識しているだろうか。あなたの領域は、あなたの家のあなたの書斎や寝室を指すのではない。領域は紛れもなく、あなたの家そのものである。
もちろん、私たちはサルと違って人間だから、腕力で領域を支配する必要はない。極めてスマートに「この家は、私と妻の住む家である。私が言うルールを守れないのであれば、一緒には住めない。」という言葉と態度を明示することが父の重要な役割でありリーダーシップである。
 前回の例会では、心から家族を変えようと願う、勇気を持った父が例会に出席し、家族のことを語ってくださった。こういった父がまた例会の場に登場してくださることを願ってやまない。