2020/01/26

ひきこもりサバイバー4 —危険な就労ありきの支援(その2)—

ひきこもりからのサバイバー(生還者)の声に学ぶことが大切だと思い、元ひきこもりのこだまこうじさんにエッセイを書いてもらいました。4回目は「危険な就労ありきの支援(その2)」です。随時掲載の予定です。

◆◆◆
 
私はひきこもりの人は「燃え尽きやすい」と言いましたが、これは「ゴールテープを切った瞬間に倒れ込むマラソン選手」をイメージしてもらえばいいと思います。
「燃え尽きやすい」せいで、ひきこもりになった人というのは、ゴールするまで死ぬような努力ができる人です。
「受験が終わって高校や大学に合格したのに、入学後すぐ学校に行かなくなった」のは「合格というゴールに辿り着くまでに、全力を出し切って倒れ込んだ」ということです。

これは「いじめ」を受けながらも、それを精いっぱい生き延びた場合も。あるいは新学期を一所懸命に過ごしゴールした場合も同じことで、ひきこもりになる人はある地点のゴールまで辿り着いて「燃え尽き」ています。

限界まで走って倒れたときに、周りの人たちから「なぜ倒れるんだ?」と言われてもひきこもりにはどうすることもできません。
なぜなら「ゴール」するために「全身全霊全精神力」を絞りつくしたからです。
42.195キロを走り切ってゴールテープを切った時点で、ひきこもりの人のレースは終わっているのです。
ゴールテープを切ったのに終わらないレースというのは、ひきこもりの人にはできません。

「目標を達成するためには、人の何倍も努力しなければ生きていけない」というのがひきこもりの人の本質です。
「ゴールした後のことなど、考えることなく駆け抜ける」のがひきこもりです。

ここに私が感覚的に感じた「就労ありきのひきこもり支援」の危険性があります。
「就労ありきのひきこもり支援」は「就労がゴールのひきこもり支援」のように感じられ、
多くのひきこもりの人が「就労することを目的(ゴール)」として認識してしまうでしょう。
そうなると、ゴールテープを切るために「全身全霊全精力」を出し切ってしまうひきこもりの人たちは、就労後に「燃え尽きる」ことになります。

そして、また周りの人たちに「なぜ、せっかく就労したのに倒れるんだ?」と責められるのです。
責められて、また「自分が悪いんだ」と考えてしまう。さらには「どうせ、いまさら、みんなのような収入を得ることはできない」とあきらめてしまう。
それが、私に「今の体制の中で、就労ありきのひきこもり支援は危険だ」と感じさせている理由です。

この方と何度もメールをやり取りしている間に「“ひきこもる”ということは、おそらく古くは戦国時代からあって、日本人の国民性にかかわる問題でもあるのですね」という言葉をいただき、はっとそのことに気づきました。

「就労ありきのひきこもり支援は、就労をゴールと見立てた支援であり、結果としてひきこもり全員を打ちのめしてダメにしてしまう上に、支援者にさえ無力感を抱かせ、支援をあきらめてしまう危険性がある」
ということです。

ひきこもりの人に「これだけ頑張ってもダメなんだ。もう生きていても仕方がない。何をしてもどうしようもない」
と絶望だけを感じさせ、支援者側からは
「あんなに苦労して支援した結果、またひきこもり、その上、生活保護になるなんてひどすぎる。ひきこもりを就労させても徒労でしかない」
という意見が出るようになってしまうのではないかと恐れています。

これはとても怖いことです。
怖いことですが、
「就労をゴールとしての支援は、ひきこもりを追い詰め、支援者である自分たちをも悲嘆にくれさせる」
ということを認識してから
「就労も視野に入れたひきこもり支援」
を考えていけば、解決は不可能ではないように思えます。

ひきこもりの特性は「目標を定めたら、がむしゃらに突っ走って無理をすること」だときちんと理解していれば「就労をゴールにしない」支援が見えてくるはずです。

私個人の見解を言わせてもらうと「ひきこもり当事者に、自分で自由に目標を定める能力」を育成することを認め、支援するという形がいいと思います。

ここからはちょっと下世話な話になりますが、
私の学生時代に、風俗に行きたいがために5つも6つもバイトを掛け持ちしていたクラスメイトがいました。
今でいう18禁ゲームや、18禁の本を買うために、定職につかずに生活していた人もいます。かと思えば、海外旅行に行くために仕事を休みまくる人もいました。

ひきこもりタイプの人にとって、自分の快楽を喜びにして、そこそこ働くということができないのです。
「目標が決まれば、まっしぐらに走り続けるひきこもりの人」にとって一番難しいことは、「仕事をさぼる」ことなのです。
「社会で正しいとされていることから、ちょっと外れる」ことが、真面目で不器用なひきこもりの人にとって一番困難なことです。

しかも、ひきこもりの人は「目標を達成したら倒れてしまう」という特徴があります。それは、ひきこもり本人ですらそれに気づいていません。
たとえ気づいて、それを訴えても相手にしてもらえません。

私は、2020年現在で就労11年目に入ります。しかし、途中で何度も就労不能の診断書を受け取り、ひと月休むようなことは何度もありました。
そんな状態になったとき、私は保健所の保健師さんに泣きつき、親を呼び出してもらい、親が忌々しそうに
「わかったから仕事を休め」
というのを私は
「信じられないから保健師さんに約束してくれ。病院…。」
と泣き叫びながら訴えました。
幸いなことにこの保健師さんは、私が「ひきこもり家族相談会」でお世話になっていた保健師さんで「あのこだまさんが、ここまでひどい状態になっているところは見たことがない」と医師へ予約の電話を入れてくれました。

結果「一か月間就労不能状態」という診断書が出て、親の「二三日休ませたら仕事にいかせればいい」という目論見は頓挫しました。しかし、そのまま仕事ができなくなり、失業し、またひきこもりに戻るという最悪のシナリオは回避されました。

私はそれまで5年間、保健所での「ひきこもり家族相談会」で、ひきこもりの家族(主に母親)の話を聞いていていました。
そこで、「ひきこもりの人の意志や言葉が、まったく家族に届かない」ということを耳で聞いて、目で見て、体感として知っていました。ですから保健師を巻き込むことでここまでやれましたが、普通は「無駄だ」とあきらめてしまいます。

よく1年間は持ったけれど、それからはひきこもりに逆戻りというのは、「就労する支援はしたけれど、就労継続のための支援が不十分」なのです。
全く、継続のための支援が足りていないのです。

厳しい言い方ですが、ひきこもり脱出者の就労継続が困難な原因は、ひきこもりの本質を全く理解せず、就労させたら成果としてそれをカウントして満足してしまっている支援者側にあります。

「働き始めれば何とかなる」「就労するまでが難しいんだ」この認識こそが現状のたらいまわし就労を生み出しています。
目標を達成してゴールテープを切った後に、そのひきこもりの人の体を毛布で包んで休憩所へ連れていく人がいなければ、ひきこもりの人は社会的に死んでしまうのです。
この認識が社会に広がらない限り、ひきこもり問題の解決はありません。

休憩所というのは当然「大人の休憩所」です。
まっとうな社会人で、“家と会社だけを行き来しているだけ”という人はあまりいないはずです。
「大人の休憩所」それは、ひきこもりの人が就労継続のために必要不可欠な秘訣でもあります。
もし社会がそれを理解し、ひきこもりの人をその休憩所へ連れていく努力をしてくれる就労支援であれば、ひきこもり脱出の大きなともしびになるでしょう。
〔エッセイ3と4 了〕







こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)


<プロフィール>
 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
 その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
 しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
 「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。



2020/01/25

ひきこもりサバイバー3 —危険な就労ありきの支援(その1)—

 ひきこもりからのサバイバー(生還者)の声に学ぶことが大切だと思い、元ひきこもりのこだまこうじさんにエッセイを書いてもらいました。3回目は「危険な就労ありきの支援(その1)」です。随時掲載の予定です。

◆◆◆
 
 嗜癖行動学研究室にエッセイを掲載するようになって間もなく、ひきこもり問題を取材している記者の方からメールをいただきました。
ひきこもり体験者である私が「伴走」という言葉について、とても息苦しいイメージがあるというエッセイを読んでくれてのメールでした。

直接会って話をしたいとのことでしたが、私はひきこもり体質なので他人とのコミュニケーションが苦手であること。毎日頑張って仕事に出ているので休みの日はぐったりとして休まないと、持たないことなどをメールで返信しました。
ひきこもり問題を取材し、ひきこもり当事者の声をよく聴いているこの方はメールでのやりとりをOKしてくれました。

さて、その方と話題となったのが「ひきこもり支援のゴールとは何か?」ということでした。
「なぜあなたも、四戸先生も就労ありきのひきこもり支援を否定するのか?」
という真摯な問いかけには、そのことに対しての疑問はあっても否定はありませんでした。
「ひきこもりに対する就労支援がなぜダメなのか?」
というのは誰しも思うことです。
私はこの問いかけに対して
「ひきこもり体験者として、今の体制での就労支援は絶対的な危険性をはらんでいるように感じる」
というとても感覚的なメールを返しました。

普通ならそこで終わりなのですが、この方は「その感覚とはどういうものなのですか?」と、優しい問いかけを続けてくれました。
「伴走」のところでも書きましたが、きちんと視線を下げて走れない、元ひきこもりの私の前に手を差し伸べてくれたわけです。
そうして、何回にもわたるやり取りの中で、ひきこもり体験者の私が感じでいる“危険性”についての答えにたどり着くことができました。

それはひきこもり体質の人は「燃え尽きやすい」ということにつきるのです。
過去においても、また現在においてもひきこもり体験者は、
「あんなに頑張ったのに、努力したのに、責められるのはひどい」
と思うことが多いです。

これはひきこもりになった人にしかわからない感覚です。
一般の方からすると、「みんなも頑張ってるよ」「苦しいのはあなただけじゃない」「誰でも最初はできないんだ」と思われるでしょう。

でも違うのです。
ひきこもりの言う「つらさ」というのは、自分の本質を勘違いしているか、理解できていないことによるものなのです。
より正確には「言葉で説明できない」体験なのです。

これは、“今の社会”に適応している人と、その“今の社会”でひきこもっている人の話す言葉の意味は、まったく違うと言ったらよいでしょうか。
このとてつもない差異を頭において、これからの話を読んでいただければ幸いです。
〔エッセイ4に続く〕






こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)


<プロフィール>
 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
 その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
 しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
 「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。



2020/01/08

1秒でも長く生き延びること


   今年もよろしくお願いします。

 新しい年を迎えたものの、私の危機感は増すばかりです。
 というのも、川崎の登戸に端を発した一連の事件。特に元農政事務次官の長男殺人事件について、裁判を通じて事件の詳細が報じられても、なお私たちの社会は、そこから肝心なことを学ぼうとしてくれないからです。
 それどころか、「引き出し屋」と呼ばれる偽のひきこもり支援の看板を掲げたビジネスが横行しています。
 ひきこもりを抱えた家族から金をしぼり出し、当事者を脅して部屋から引きずり出す。その上、ろくな支援もせず当事者は死亡しました。(※1)
 どうして「引き出し屋」のようなビジネスが横行してしまうのか。これについては、元ひきこもり当事者で、私の家族支援活動のパートナーである、こだまこうじ氏がとても鋭い指摘をしてくれました。是非そちらをお読みください。(※2)

さて、私は一昨年に福岡で開催された第29回日本嗜癖行動学会で「ひきこもりの表層と深層を架橋する」という報告をしました。これは、不登校の子や、ひきこもりの人、また家族が抱える生きづらさについての報告です。
 この報告の中で、病んでいるのはひきこもりではなく、生産性と偽りの多様性という幻想にとらわれた社会であると指摘しました。(※3)

 私たちの社会は、今もなお生産性がもっと上げられると幻想を抱いています。
 しかし現実は、この20年間以上デフレです。モノの値段が上がらない。給料も上がりません。なのに、生産性さえ上げれば、もっと収入が得られると信じています。

 また、多様性が盛んに叫ばれます。しかし、多くの人が多様性を盛んに叫ぶということは、私たちが生きる社会が、まだまだ画一的な社会であることを意味します。つまり人と違う少数者は、社会に「あるがままでよい」と受け入れてもらえないのです。

 現代社会は、こうした生産性の向上と偽りの多様性という妄想にとりつかれています。
 この社会では、生産性を上げることが当たり前ですから、就労することを求めます。就労している人にも、もっと働くことを求めます。
だから、ひきこもっている人たちには就労してもらうことが、ひきこもり支援だと、この社会は思い込んでいます。

 必要なのは、本物の多様性です。不登校は学校に登校する事がゴールではありません。ひきこもりは、就労する事がゴールではありません。
 色々な形、そのままひきこもる。ちょっとだけ家族と会話する。ちょっとだけ家事をする。ちょっとだけ散歩する。ちょっとだけバイトする。色々でいい。
 困難な時代、大切なことは1秒でも長く生き延びること。できれば笑顔で。それは、ひきこもりも、ひきこもりでない人も、おんなじ。
〔このエッセイは、楠の会だより No.211号(2020年1月)に寄稿したものです。〕


※1 西日本新聞 「扉の向こう–引きこもり支援の今(上)(中)」20191216日、「同上(下)」、20191217日)
※2 ブログに、こだまこうじ氏が寄稿してくれています。
※3 詳細については、『アディクションと家族』342号に掲載しています。こちらを是非お読みください。なお、本誌には精神科医の斎藤学先生の「生きづらさと嗜癖」と題したお話が載っています。
私たちがおちいりやすい「他人からどう見られているか不安」という感覚。この感覚について、とてもわかりやすく解説されています。
学会誌ですが、一般向けに出版されています。
なお、定期購読(年間2冊 ¥3,456〔税込〕)は、直接、家族機能研究所にメールでお申込みください。(E-mail:society@iff.or.jp 件名に「定期購読申込み」と記載してください。折り返し、講読料の振込先をお知らせします。)









2020/01/06

ひきこもりサバイバー2 —「伴走型支援」が怖い—

 ひきこもりからのサバイバー(生還者)の声に学ぶことが大切だと思い、元ひきこもりのこだまこうじさんにエッセイを書いてもらいました。2回目は「ひきこもりの目に映る「伴走型支援」」です。随時掲載の予定です。


◆◆◆
 
 新聞記事などの中では、ひきこもり当事者に寄り添って社会復帰を手伝うことを「伴走型支援」として表現されていること。そしてその言葉が良い意味で使われているということを四戸先生が示してくれた資料の中で知りました。

 私は今も新聞を読み込む方ではありません。また、支援の記事が大々的に新聞に掲載されているように見えても、私から見れば、それはごくごく狭いコミュニティ内でのことなので、ほとんど気にしていませんでした。

しかし、「伴走型支援」という文字を見た瞬間に、
「これでは、せっかくひきこもり脱出のために尽力してくれている人たちに対するひきこもり当事者のイメージが最悪になる。」
と愕然としました。

ひきこもりとは、今まで苦しい思いをしながらも、倒れるまでわき目もふらず走り続けた人たちのことです。
「走る」=「つらいこと」
であることを、身をもって体験し心が折れた人たちです。

そんな人たちに「こういうところがあるよ」と「伴走型支援」という文字の入ったパンフレットを見せたら、
「また倒れるまで走り続けさせられる。」「つらくても、休ませてくれないに違いない。」
という恐怖心が芽生えるのは当然のことです。

これをわかりやすく伝えるならば、マラソンランナーの隣を伴走しながら励ましているコーチが一番わかりやすいでしょう。
ランナーの腕の振りや体幹のブレ、足運びのリズムからスタミナ。さらに精神状態まで考えながら励ますコーチとランナーの関係というのは「感動的で素晴らしいもの」でしょう。

しかし、それはふたりの間に、明確で同じゴール設定があり。さらに、何をすればいいのかをランナーもコーチも理解し、高いモチベーションを持っている。という前提があってこそ可能なことです。

感動的で素晴らしいコーチングも、何のトレーニングもしていない素人にとっては苦痛でしかありません。

いきなり、「今から42.195キロ走ろう!」と言われて、すぐやる気になれるような人間はいません。

伴走型の“走る”という単語は、ひきこもり当事者に強烈な圧力とつらかった過去を思い出させます。

実際に成果を出している支援者の方というのは、
「まずは声を聴かせてもらっていいかな。」
というドア越しの対話も、亀の歩みのように慎重かつ繊細な心配りをしつつ、それこそ年単位の時間を使うことも覚悟して挑んでいます。

私が「ひきこもり家族相談会」に関わっているとき、もっとも熱心だった支援者がこう言っていたことを思い出します。
「10年間ひきこもっている当事者に、最初の頃は、ドア越しに話をして、
その当事者が、ある時、外に出てみる気になったと言ったんです。」
「私は、無理をしないようにね、と見守っていたところ、
玄関を一歩出たところで、ひきこもり当事者が泣き崩れてしまい、びっくりしました。」

「あの当事者はこう言っていました。“家の中と外ではすべてが違う。”」
「確かに、目に入ってくる世界の膨大な情報量。家の中ではありえない、風とか光、音の迫力に立ちすくむのは当然ですよね。」

支援者の話はさらに続きました。

「今まで家の中から出られなかったのに、一歩出ただけでもすごいよ。」
と支援者は、そのがんばりを評価し、ひきこもり当事者の肩を抱きながら、
「すごい!すごい!」
とふらつく当事者を部屋まで送り届けたと言っていました。

この支援者のすごさは、まだ続きます。

「そのあと当事者の方は、某ハンバーガーチェーン店の季節限定のアップルパイが食べたいと告白してくれたのです。」
「しかし、期間が過ぎていたので、次の年に食べにいく約束をしました。
それからまたその季節が来たので、当事者の方ができるだけ人に会って疲れないように、車で某ハンバーガーチェーン店に行ったのです。」
「でも、そこのアップルパイはあんまりパッとしなかったんです。」
「それなのに、当事者の方はすごくおいしかったと本気で喜んでいて、あんなにベちょっとしてたのに、何ででしょう?」
と尋ねてきたことです。

私はこの支援者の熱心さを称賛する前に、ひきこもり経験者として素直に、
「アップルパイが本当においしかったんですよ。普通に外に出られる人と違ってひきこもっている人間にとってはアップルパイ自体が貴重でおいしいんです。」
「私もひきこもっていたころは、ずっと死ぬ前にコーラを飲みたい。とあこがれてましたから。」
と答えました。

ひきこもり当事者とともに歩み、社会復帰をする。というのは、この支援者のように、こういう覚悟と熱心さを持たなければ不可能です。

そして、こういう支援者は少ないです。しかし、確かに存在します。

「伴走型支援」の“走る”がそんな努力をする支援者の生き方を正しく表現できているでしょうか?

私は、ひきこもりの人を抱えた親御さんから、社会復帰にどれくらい時間がかかるか、を尋ねられたときは。
「ひきこもり当事者が社会に関われるようになるには、ひきこもっていた倍の年数がかかります。」
と返してきました。

今まで走り続けて、わき道に逸れなかったひきこもりの人は、生真面目であるがゆえに要領が悪いのです。
“走る”という文字を見て、恐怖と不安を感じてしまうほどに素直なのです。
“走る”前に“歩く”。
“歩く”前に“言葉を聞かせてもらう”。
そういう支援者の気持ちを表すには「伴走型支援」という言葉は、あまりにも強すぎるように私には思えます。





こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)




<プロフィール>
 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
 その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
 しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
 「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。