2020/01/06

ひきこもりサバイバー2 —「伴走型支援」が怖い—

 ひきこもりからのサバイバー(生還者)の声に学ぶことが大切だと思い、元ひきこもりのこだまこうじさんにエッセイを書いてもらいました。2回目は「ひきこもりの目に映る「伴走型支援」」です。随時掲載の予定です。


◆◆◆
 
 新聞記事などの中では、ひきこもり当事者に寄り添って社会復帰を手伝うことを「伴走型支援」として表現されていること。そしてその言葉が良い意味で使われているということを四戸先生が示してくれた資料の中で知りました。

 私は今も新聞を読み込む方ではありません。また、支援の記事が大々的に新聞に掲載されているように見えても、私から見れば、それはごくごく狭いコミュニティ内でのことなので、ほとんど気にしていませんでした。

しかし、「伴走型支援」という文字を見た瞬間に、
「これでは、せっかくひきこもり脱出のために尽力してくれている人たちに対するひきこもり当事者のイメージが最悪になる。」
と愕然としました。

ひきこもりとは、今まで苦しい思いをしながらも、倒れるまでわき目もふらず走り続けた人たちのことです。
「走る」=「つらいこと」
であることを、身をもって体験し心が折れた人たちです。

そんな人たちに「こういうところがあるよ」と「伴走型支援」という文字の入ったパンフレットを見せたら、
「また倒れるまで走り続けさせられる。」「つらくても、休ませてくれないに違いない。」
という恐怖心が芽生えるのは当然のことです。

これをわかりやすく伝えるならば、マラソンランナーの隣を伴走しながら励ましているコーチが一番わかりやすいでしょう。
ランナーの腕の振りや体幹のブレ、足運びのリズムからスタミナ。さらに精神状態まで考えながら励ますコーチとランナーの関係というのは「感動的で素晴らしいもの」でしょう。

しかし、それはふたりの間に、明確で同じゴール設定があり。さらに、何をすればいいのかをランナーもコーチも理解し、高いモチベーションを持っている。という前提があってこそ可能なことです。

感動的で素晴らしいコーチングも、何のトレーニングもしていない素人にとっては苦痛でしかありません。

いきなり、「今から42.195キロ走ろう!」と言われて、すぐやる気になれるような人間はいません。

伴走型の“走る”という単語は、ひきこもり当事者に強烈な圧力とつらかった過去を思い出させます。

実際に成果を出している支援者の方というのは、
「まずは声を聴かせてもらっていいかな。」
というドア越しの対話も、亀の歩みのように慎重かつ繊細な心配りをしつつ、それこそ年単位の時間を使うことも覚悟して挑んでいます。

私が「ひきこもり家族相談会」に関わっているとき、もっとも熱心だった支援者がこう言っていたことを思い出します。
「10年間ひきこもっている当事者に、最初の頃は、ドア越しに話をして、
その当事者が、ある時、外に出てみる気になったと言ったんです。」
「私は、無理をしないようにね、と見守っていたところ、
玄関を一歩出たところで、ひきこもり当事者が泣き崩れてしまい、びっくりしました。」

「あの当事者はこう言っていました。“家の中と外ではすべてが違う。”」
「確かに、目に入ってくる世界の膨大な情報量。家の中ではありえない、風とか光、音の迫力に立ちすくむのは当然ですよね。」

支援者の話はさらに続きました。

「今まで家の中から出られなかったのに、一歩出ただけでもすごいよ。」
と支援者は、そのがんばりを評価し、ひきこもり当事者の肩を抱きながら、
「すごい!すごい!」
とふらつく当事者を部屋まで送り届けたと言っていました。

この支援者のすごさは、まだ続きます。

「そのあと当事者の方は、某ハンバーガーチェーン店の季節限定のアップルパイが食べたいと告白してくれたのです。」
「しかし、期間が過ぎていたので、次の年に食べにいく約束をしました。
それからまたその季節が来たので、当事者の方ができるだけ人に会って疲れないように、車で某ハンバーガーチェーン店に行ったのです。」
「でも、そこのアップルパイはあんまりパッとしなかったんです。」
「それなのに、当事者の方はすごくおいしかったと本気で喜んでいて、あんなにベちょっとしてたのに、何ででしょう?」
と尋ねてきたことです。

私はこの支援者の熱心さを称賛する前に、ひきこもり経験者として素直に、
「アップルパイが本当においしかったんですよ。普通に外に出られる人と違ってひきこもっている人間にとってはアップルパイ自体が貴重でおいしいんです。」
「私もひきこもっていたころは、ずっと死ぬ前にコーラを飲みたい。とあこがれてましたから。」
と答えました。

ひきこもり当事者とともに歩み、社会復帰をする。というのは、この支援者のように、こういう覚悟と熱心さを持たなければ不可能です。

そして、こういう支援者は少ないです。しかし、確かに存在します。

「伴走型支援」の“走る”がそんな努力をする支援者の生き方を正しく表現できているでしょうか?

私は、ひきこもりの人を抱えた親御さんから、社会復帰にどれくらい時間がかかるか、を尋ねられたときは。
「ひきこもり当事者が社会に関われるようになるには、ひきこもっていた倍の年数がかかります。」
と返してきました。

今まで走り続けて、わき道に逸れなかったひきこもりの人は、生真面目であるがゆえに要領が悪いのです。
“走る”という文字を見て、恐怖と不安を感じてしまうほどに素直なのです。
“走る”前に“歩く”。
“歩く”前に“言葉を聞かせてもらう”。
そういう支援者の気持ちを表すには「伴走型支援」という言葉は、あまりにも強すぎるように私には思えます。





こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)




<プロフィール>
 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
 その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
 しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
 「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。



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