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今回は、ひきこもり体験者としてのひきこもりの苦しさを、今、私がわかっている範囲で書きたいと思います。
たった4年しかひきこもっていない私でも、20年たった今でも思い出す「怒りのメカニズム」とでも言えばいいでしょうか?
私は現在、一応、会社と家を往復している身なので、「社会に適応できている人は、それなりに精いっぱい考えているんだろうなぁ」と思うことはできます。
しかし、一方で「ひきこもりを体験していないやつらに、ひきこもりの苦しみは絶対にわかるはずがない」という思いがあります。
家にひきこもるということは、“家族とのみ関わり、生活する”という生活スタイルに適応することであり、しかも部屋で孤立するということなのです。
ひきこもり当事者は、心の中にいる家族以外の人を追い出して、家族のみを相手にできるように自分の世界を作り替えなくてはいけません。
簡単に言えば、これは、自分から社会を切り離す作業です。言うなれば、「人並みに幸せな人生をあきらめること」です。
この作業は、怒りと執着を生じさせます。
怒りというのは「なぜ自分が幸せな人生を捨てなければいけないのか」という憤りです。
執着とは「人生をあきらめて生きるために家族という命綱を絶対に手放してはならないという生への執着です。
「幸せな人生をあきらめること」と「生きることをあきらめること」はイコールではありません。
それでも、「幸せ」を求めない「生」というものは想像を絶する苦行です。家から逃げることはできず、誰からも褒められることのない人生。断食して洞窟にこもって「悟り」という目標を持つ苦行とは違うのです。
この苦しみは想像を絶しています。
どんなに精神強靭な人でも、「絶対に耐えることはできません」。
「家から逃げることができず、褒められることのない人生」とは、「家に閉じ込められ、家族からも社会からも責められる人生」と言った方が正確かもしれません。
憐れみとか同情も、ひきこもりのように自分が下位にいると感じている人間にとっては、それ自体が責め苦です。
こうなると、ひきこもり当事者にとっては、家計を握っている母親だけが恐怖の対象になります。
だって常に「この子は、何でこんなになってしまったんだろう」というまなざしと、言葉で叱責してくる相手なのですから。
足音からでも怒っていることがわかる・・・。
安心して「生きる」ためには、この恐ろしき「母」をコントロールしなければなりません。
「殺さず、殺されず、逃げられず」です。
そうして家に居るうちに、ひきこもり当事者の中には母親と自分しかいなくなってしまいます。
これは、まさに、一対一の真剣勝負です。
なので、間に他人が入ろうとすると、それを阻止するために必死になります。
「一対一でも大変で、気が狂いそうで、ぎりぎりコントロールできている状態なのに、他人という不確定要素が来たら終わってしまう!」
泣く泣く捨てた「人並みに幸せな人生」が無駄になってしまう!!
そういうわけで、他人が帰った後に、ひきこもり当事者が怒り狂って暴れるのは必然なのです。
母親を慰めるために、現状を維持する手段として、母親の緊張を和らげるために来てくれる人はいいのです。
その他人が帰った後、母親の機嫌がよくなりひきこもり当事者に優しくなるような介入ならいいのです。
その他人が、ひきこもり当事者が「やりたいことがなにもない」のではなく。「やりたいことを全部投げ捨てて、生きることだけに執着して、何とか生きている」ことを認識して認めてくれれば、場合によっては相手をしてもいい。
そこまでわからなくても「ひきこもり上等!母親の相手をするのは疲れるだろう」という気持ちで来るなら部屋という結界の中に入れてもいい。
そのような緊張感と恐怖感がひきこもりにはあります。
私自身、こうしてエッセイを書き進めないと「本当にやりたいことと、生きることを天秤にかけて、生きることを選択した結果ひきこもったんだ」と気づかないほどに、
ひきこもりは、自分をだましているのです。
たった4年しかひきこもっていない私でも、20年たった今でも思い出す「怒りのメカニズム」とでも言えばいいでしょうか?
私は現在、一応、会社と家を往復している身なので、「社会に適応できている人は、それなりに精いっぱい考えているんだろうなぁ」と思うことはできます。
しかし、一方で「ひきこもりを体験していないやつらに、ひきこもりの苦しみは絶対にわかるはずがない」という思いがあります。
家にひきこもるということは、“家族とのみ関わり、生活する”という生活スタイルに適応することであり、しかも部屋で孤立するということなのです。
ひきこもり当事者は、心の中にいる家族以外の人を追い出して、家族のみを相手にできるように自分の世界を作り替えなくてはいけません。
簡単に言えば、これは、自分から社会を切り離す作業です。言うなれば、「人並みに幸せな人生をあきらめること」です。
この作業は、怒りと執着を生じさせます。
怒りというのは「なぜ自分が幸せな人生を捨てなければいけないのか」という憤りです。
執着とは「人生をあきらめて生きるために家族という命綱を絶対に手放してはならないという生への執着です。
「幸せな人生をあきらめること」と「生きることをあきらめること」はイコールではありません。
それでも、「幸せ」を求めない「生」というものは想像を絶する苦行です。家から逃げることはできず、誰からも褒められることのない人生。断食して洞窟にこもって「悟り」という目標を持つ苦行とは違うのです。
この苦しみは想像を絶しています。
どんなに精神強靭な人でも、「絶対に耐えることはできません」。
「家から逃げることができず、褒められることのない人生」とは、「家に閉じ込められ、家族からも社会からも責められる人生」と言った方が正確かもしれません。
憐れみとか同情も、ひきこもりのように自分が下位にいると感じている人間にとっては、それ自体が責め苦です。
こうなると、ひきこもり当事者にとっては、家計を握っている母親だけが恐怖の対象になります。
だって常に「この子は、何でこんなになってしまったんだろう」というまなざしと、言葉で叱責してくる相手なのですから。
足音からでも怒っていることがわかる・・・。
安心して「生きる」ためには、この恐ろしき「母」をコントロールしなければなりません。
「殺さず、殺されず、逃げられず」です。
そうして家に居るうちに、ひきこもり当事者の中には母親と自分しかいなくなってしまいます。
これは、まさに、一対一の真剣勝負です。
なので、間に他人が入ろうとすると、それを阻止するために必死になります。
「一対一でも大変で、気が狂いそうで、ぎりぎりコントロールできている状態なのに、他人という不確定要素が来たら終わってしまう!」
泣く泣く捨てた「人並みに幸せな人生」が無駄になってしまう!!
そういうわけで、他人が帰った後に、ひきこもり当事者が怒り狂って暴れるのは必然なのです。
母親を慰めるために、現状を維持する手段として、母親の緊張を和らげるために来てくれる人はいいのです。
その他人が帰った後、母親の機嫌がよくなりひきこもり当事者に優しくなるような介入ならいいのです。
その他人が、ひきこもり当事者が「やりたいことがなにもない」のではなく。「やりたいことを全部投げ捨てて、生きることだけに執着して、何とか生きている」ことを認識して認めてくれれば、場合によっては相手をしてもいい。
そこまでわからなくても「ひきこもり上等!母親の相手をするのは疲れるだろう」という気持ちで来るなら部屋という結界の中に入れてもいい。
そのような緊張感と恐怖感がひきこもりにはあります。
私自身、こうしてエッセイを書き進めないと「本当にやりたいことと、生きることを天秤にかけて、生きることを選択した結果ひきこもったんだ」と気づかないほどに、
ひきこもりは、自分をだましているのです。
こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)
<プロフィール> 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。
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