2020/03/27

ひきこもりサバイバー6 —親が逃げる必要性について—

ひきこもりからのサバイバー(生還者)の声に学ぶことが大切だと思い、元ひきこもりのこだまこうじさんにエッセイを書いてもらいました。6回目は「子どもの暴力から逃げる必要性について」です。随時掲載の予定です。

◆◆◆

ひきこもりの子を持つ母親は、暴力をふるう子どもから逃げることが悪いことだと思っている人が多いようです。

私が話を聞いた母親たちも一様に、
「私が逃げることで、本人は自分の存在を否定されたと感じるのではないか。」
「一番に信じていた母親から捨てられたと本人が感じるのではないか。」
といった話をしていました。

さらには、逃げることで
「もっと暴力がひどくなるのではないか?」
という不安に取り憑かれている母親もいました。

私は相談会の場ではずっと、
「子どもさんが暴力に訴えてきたら、警察を呼んであげてください」と言ってきました。
しかし、さすがに
「警察が来ても暴れていたら、措置入院のチャンスだから」とまでは言えませんでした。

それは、母親に対して
「もし警察を呼んだら、子どもを精神病にされるかもしれない。」
という恐怖を与えてしまい、どんなに暴力を振るわれても、母親は警察を呼ばず、結果としてどちらかが人殺しになってしまう可能性を考えたからです。

しかし、四戸先生が「ひきこもり家族相談会」に参加してくれるようになり、あるケースに対して、あっさりと、
「暴れたら、措置入院のチャンスになるかもしれないから。」
「でも、本当に暴力を振るわれたら、警察に電話している余裕もないから、まずは携帯電話を持って、家から逃げて!」
と言ったことで、ふと、
「そういえば、自分がひきこもっていた時も、母親は家の外に逃げることはなかった。」
それに
「話を聞いた母親たちの中にも、車の中に隠れるとか、家の敷地から完全に出てしまう母親はいなかったな。」
と気づきました。

元ひきこもりの立場から言うと
「自分が暴力をふるいそうになったら、絶対に家の外に逃げて欲しい」
と願っています。

なぜかというと
「親を殴りたくなるほどの苦しみや混乱は一過性のもの」
だからです。

ひきこもりは、どうしても自分が
「社会的に間違った生活をしている」
ことを意識してしまいます。

意識しないように布団に潜り込んでいても、学校に行く学生、仕事に行く社会人の動きは、その音や雰囲気で伝わってきます。

朝のニュースを観ていると、しまいには
「それでは、いってらっしゃい。」
みたいな、余計なものまであります。

そんな中で「自殺回避」のために、ひきこもり続けることはかなり苦痛です。
その苦痛の中で、さらに心が擦り切れてしまうと、何かに当たりたくなります。

壁とか・・・。
ゲームのモンスターをぶっ殺しているうちはまだいいのですが、
やはり生身の人間である以上、最終的に怒りはリアルな世界へと向かってしまいます。

壁を殴って穴をあけ、パソコンを叩き壊すといった話を聞くと私は、
「苦しいのによく自分を制御している。がんばって、ひきこもっているな。」
と思います。

しかしそんな自己制御の効いたひきこもりの人でも、
「もう、どうでもいい。」
と思ってしまう時期は必ずあります。
それがモノではなく、人、つまりは親を殴ったり蹴ったりする暴力行為に及ぶ時期です。

ある時、物言わぬ壁は、殴っても何の反応もないので本当にむなしくなってしまうのです。
「「痛い」と反応してくれる、自分と同じ命にこの苦しさをぶつけたい。苦しさをわからせて、共有させたい。」
そんな社会的にアウトな感覚に陥ってしまう時があるのです。

しかし、
「死ぬほど苦しいから、この苦しみをわかれ!」
と言って
「人殺しをする」
そんなことは許されません。
絶対にダメです。

それを、ひきこもりになるような、不器用なほどの真面目人間はわかっています。
だから、怒りを抑制するために、ゲームで敵を倒したり、泣いたり、わめいたり、親を言葉で責め立てたりしています。

それでも、
「もしかしたら今度こそ、もっとひどい暴力をふるうかもしれない。」
という恐怖にとらわれるか、魔が差して、暴力を正当化することさえあります。

これは、ひきこもり当事者にとっても親御さんにとっても不幸なことです。
それを避けるために私は、
「ひきこもりの子に暴力を振るわれそうになったら、親は家の外に逃げる」
ことが大切だと思っています。

家の敷地外に出れば、ひきこもりは追ってきません。
そして家から出られないひきこもりは、めちゃくちゃに怒っても、家の中のものを壊すことぐらいしかできません。
最悪でも、三日もすれば発作的な怒りは静まっていきます。

ひきこもりは、もともと人を殴ることは悪いとわかっている人たちで、
さらには、親が家の中のことを外に持ち出したがらないことを知っています。
それなのに
「その親が家の外に逃げた」
という衝撃的事件に、怒りの八割は吹き飛んでしまいます。

それでも収まらない場合は警察を呼びましょう。
これも、警察を呼ぶとひきこもりはさらに怒り、荒れると親たちの多くが思っているようですが、むしろ本人には
「暴力をふるいそうになっても、警察が止めに来てくれる。」
という安心感が生まれます。

不器用で生真面目なひきこもりは、
「自分は社会的に受け入れてもらえないことを覚悟したけど、やっぱりそれは苦しくて、いつ犯罪を犯すかもわからない。もしそうなったとき、周りの人を巻き込まないために、この家にひきこもりがいること、危険なことをみんなに知っておいて欲しい。対処する心構えをしておいてほしい。」
という気持ちを持っています。

警察がサイレンを鳴らして来てくれると、ひきこもりの人はぴたりと大人しくなります。
警察に事情を聴かれると、親が一緒じゃなければ、警察に話をすることも結構あります。

私が、あるひきこもりの家庭に保健師と訪問に行ったとき、
当事者はこちらに背中をむけ、しっかりと
「結構ですから帰ってください!」
と声を発しました。

背中を向けるのは拒絶ですが、声を聴かせてくれるのは受容です。

この受容は、
私が「すいません。親御さんは保健師さんと外に出ていてくれませんか。」
と何度も親にお願いしたから生まれたことだと思います。
「(親の前で、まともな話なんかできるわけないだろ。察しろ)」という声にも聞こえました。

あるいは、あるひきこもり家庭の訪問で、たまたま親がいなかったので、
当事者が出てきて、本人と話ができたという例は結構多いです。
ただし、それをチャンスとして生かせるかどうかは、また別問題です。

ひきこもりは親に対して過剰なまでに気を使っています。
生き残るために、神経をすり減らしています。
「自殺回避」のためのひきこもりを維持するために、神経をすり減らしています。
自殺への道を断ちつつ、家族内で殺し合いが起きないように、いろいろと行動を制御しています。

そう考えると、
「親である私が、家の敷地の外へ逃げてあげよう。」
あるいは
「安心して、ひきこもることができるように警察を呼んであげよう。」

と少しは思えるのではないでしょうか?



こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)


<プロフィール>
 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
 その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
 しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
 「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。


2020/03/02

ひきこもりサバイバー5 —ひきこもりの苦しみ—

ひきこもりからのサバイバー(生還者)の声に学ぶことが大切だと思い、元ひきこもりのこだまこうじさんにエッセイを書いてもらいました。5回目は「ひきこもりの苦しみ」です。随時掲載の予定です。

◆◆◆
 
今回は、ひきこもり体験者としてのひきこもりの苦しさを、今、私がわかっている範囲で書きたいと思います。

たった4年しかひきこもっていない私でも、20年たった今でも思い出す「怒りのメカニズム」とでも言えばいいでしょうか?
私は現在、一応、会社と家を往復している身なので、「社会に適応できている人は、それなりに精いっぱい考えているんだろうなぁ」と思うことはできます。
しかし、一方で「ひきこもりを体験していないやつらに、ひきこもりの苦しみは絶対にわかるはずがない」という思いがあります。

家にひきこもるということは、“家族とのみ関わり、生活する”という生活スタイルに適応することであり、しかも部屋で孤立するということなのです。
ひきこもり当事者は、心の中にいる家族以外の人を追い出して、家族のみを相手にできるように自分の世界を作り替えなくてはいけません。

簡単に言えば、これは、自分から社会を切り離す作業です。言うなれば、「人並みに幸せな人生をあきらめること」です。

この作業は、怒りと執着を生じさせます。
怒りというのは「なぜ自分が幸せな人生を捨てなければいけないのか」という憤りです。
執着とは「人生をあきらめて生きるために家族という命綱を絶対に手放してはならないという生への執着です。

「幸せな人生をあきらめること」と「生きることをあきらめること」はイコールではありません。
それでも、「幸せ」を求めない「生」というものは想像を絶する苦行です。家から逃げることはできず、誰からも褒められることのない人生。断食して洞窟にこもって「悟り」という目標を持つ苦行とは違うのです。

この苦しみは想像を絶しています。
どんなに精神強靭な人でも、「絶対に耐えることはできません」。

「家から逃げることができず、褒められることのない人生」とは、「家に閉じ込められ、家族からも社会からも責められる人生」と言った方が正確かもしれません。
憐れみとか同情も、ひきこもりのように自分が下位にいると感じている人間にとっては、それ自体が責め苦です。
こうなると、ひきこもり当事者にとっては、家計を握っている母親だけが恐怖の対象になります。
だって常に「この子は、何でこんなになってしまったんだろう」というまなざしと、言葉で叱責してくる相手なのですから。

足音からでも怒っていることがわかる・・・。
安心して「生きる」ためには、この恐ろしき「母」をコントロールしなければなりません。
「殺さず、殺されず、逃げられず」です。
そうして家に居るうちに、ひきこもり当事者の中には母親と自分しかいなくなってしまいます。
これは、まさに、一対一の真剣勝負です。
なので、間に他人が入ろうとすると、それを阻止するために必死になります。
「一対一でも大変で、気が狂いそうで、ぎりぎりコントロールできている状態なのに、他人という不確定要素が来たら終わってしまう!」
泣く泣く捨てた「人並みに幸せな人生」が無駄になってしまう!!

そういうわけで、他人が帰った後に、ひきこもり当事者が怒り狂って暴れるのは必然なのです。

母親を慰めるために、現状を維持する手段として、母親の緊張を和らげるために来てくれる人はいいのです。
その他人が帰った後、母親の機嫌がよくなりひきこもり当事者に優しくなるような介入ならいいのです。

その他人が、ひきこもり当事者が「やりたいことがなにもない」のではなく。「やりたいことを全部投げ捨てて、生きることだけに執着して、何とか生きている」ことを認識して認めてくれれば、場合によっては相手をしてもいい。

そこまでわからなくても「ひきこもり上等!母親の相手をするのは疲れるだろう」という気持ちで来るなら部屋という結界の中に入れてもいい。

そのような緊張感と恐怖感がひきこもりにはあります。
私自身、こうしてエッセイを書き進めないと「本当にやりたいことと、生きることを天秤にかけて、生きることを選択した結果ひきこもったんだ」と気づかないほどに、
ひきこもりは、自分をだましているのです。




こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)


<プロフィール>
 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
 その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
 しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
 「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。