2021/05/11

ひきこもりサバイバー23 —ひきこもりの“いろいろ考える力”—

 福岡県立大学で嗜癖行動学を研究している四戸智昭です。

ひきこもりからのサバイバー(生還者)の声に学ぶことが大切だと思い、元ひきこもりのこだまこうじさんにエッセイを書いてもらいました。随時掲載の予定です。
今回は、『ともあれ4年間のひきこもり期間がなければ「極楽は悟りを開いた如来が衆のために何百年も悟るためのお手伝いをしてくれる」ところで、楽して暮らせるところじゃないんだ!という当たり前の教えを調べることもしなかったでしょう。』という境地に至ったひきこもりのお話。

◆◆◆

当事者の声を聴く会を主宰してくださった福岡の楠の会でも話したのですが、
私がひきこもりという状況からこうして生き延びることができたのは、「一つのことをいろいろな方向から考える力」にあったように思えます。

ひきこもりの人の誰もがやる
「なぜ自分はひきこもり生活なんかする羽目になったのだろう?」

という原因追及という名の「責任の押し付け場所探し」をしているうちに、癖と呼べるほどではありませんが結構、多方面から物事を考えるようになってしまいました。

具体的に言えば私の場合は

「親が悪いんだ!」から「自分が悪い」になり、「ひょっとしたら、社会が悪いんじゃ?」となり、「生まれた時代が悪かった?」、「いやいや場所かも?」とぐるぐる考えていました。

正確には、そのときどきの感情に振り回されて親がため息をつくと親のせい、ニュースで政府が悪いと言っていると政府のせい、ひきこもり番組で社会に受け皿がないと言っていれば社会のせいと思うわけです。

こうして責任の所在を明らかにしようとしていると、いろんなところ、あるいは人を、何かに当てはめる作業をすることになります。

そうすると、それが悪い理由もどんどん変えなくてはいけません。

当然、私は「なぜこんな風になったのか」を子供時代からその時点までの、いろんな時間軸で考えたりもしました。

そのおかげである意味、ものの見方が柔軟になった気がします。

もちろんひきこもり期間には「恥ずかしい」という感覚が強くて、考えている意識はありませんでした。

この「恥ずかしい」はもちろん「家族を含めた社会全体が働きもしない子供が家にいるなんて恥ずかしい」の「恥ずかしい」なので自発的な感情というより、押し付けれらた「恥ずかしさ」です。

そしてその「恥ずかしさ」にのまれるのは日本にある「臭いものにはふたをする」文化をしっかり身に着けているからでしょう。

ともあれ4年間のひきこもり期間がなければ「極楽は悟りを開いた如来が衆のために何百年も悟るためのお手伝いをしてくれる」ところで、楽して暮らせるところじゃないんだ!という当たり前の教えを調べることもしなかったでしょう。

今、私がこうして生にしがみついていられるのも、ひきこもり期間に得た「いろいろ考える力」のたまものだといえます。



こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)



<プロフィール>
 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
 その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
 しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
 「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。