2020/06/26

ひきこもりサバイバー9 —目線を下げた支援とは—

 福岡県立大学で教員をしている四戸智昭です。
 ひきこもりからのサバイバー(生還者)の声に学ぶことが大切だと思い、元ひきこもりのこだまこうじさんにエッセイを書いてもらいました。今回は特にひきこもりの支援者に読んでもらいたいエッセイです。

◆◆◆

ひきこもり支援者の間で「目線を下げて」という言葉がよく使われています。しかし、元ひきこもりの私としてはこの言葉に強い違和感を覚えます。
その違和感とは「目線を下げて社会に参加させて、いずれ就職させてあげよう。」
という隠された意図が上から目線だからです。

私たちひきこもりは「自殺回避」のためにひきこもっています。
社会に出ると「社会のあたりまえ」に対応できず、混乱し、心が行き場を失ってしまうのです。一般の社会人の方は、それでは将来が心配だと「将来の不安」を訴えます。
ところが、ひきこもりにとってそれは理解できません。
なぜならひきこもりにとっては「今の不安」が最重要課題だからです。

いわゆるフツーに暮らしている人は、「明日、どう生きるか」を考えますが、
ひきこもりの人は、「なぜ生きているか」を考えてしまいます。
ひきこもりの人は、またこうも考えます。
「今の社会に適応できずにドロップアウトしてしまったのに、なぜ死んでいないのか?」
そういう哲学にも似た孤独な思考をしながら、ひきこもりは「家」で生きています。
「家」の中ならかろうじて生きていけるのです。

不可思議に思われるかもしれません。なぜなら「家」も社会の中のひとつの組織体ですから、「家」にいることで、社会にそれなりに適応しているのではないかと。
しかし、「家」は今の社会からドロップアウトした自分を生かしてくれる唯一の居場所なのです。

ある人は、こうも言うかもしれません。
「親が死んだらどうするのか?」
しかし、わけがわからないで生きているひきこもりにとっては、適応できる「家」が親の死と共になくなるのであれば、
「親が死んだら死ぬ。」
という予測しか立てられません。
今の社会に適応できていないひきこもりは、今の社会に適応している人にとっては異邦人、あるいはエイリアンに感じるでしょう。

そういうひきこもりを支援する。あるいは認知するには、“目線を下げる”よりも“目線を変えて”欲しいのです。今の社会の「当たり前」が通用しない次元で、生きながらも苦しんでいることを理解して対応していて欲しいと思っています。

生産性を上げるために、ひきこもりの人を家から引きずり出し、就職させること、社会参加をさせること。
そういった誘導で、ひきこもりの人を本当に幸せにできるのだろうか?
 是非、一度立ち止まって、自分たちがしているひきこもり支援の在り方が、ひきこもりの人の幸せのためなのか?あるいは、単に支援者の不安を解消するためのものなのではないのか?自問していただければと思います。






こだまこうじ (元ひきこもり。1976年福岡県飯塚市生まれ、同市在住。)




<プロフィール>
 中学時代いじめ被害、高校で不登校に。その後、最初のひきこもり時代を経験。このとき、「キツイから精神科に連れて行って」と親に泣いて希望するも、完全に無視される。周囲から就労を強要され、専門学校へ入学。その後、就労するも就職先の社員寮で動かなくなっているところを発見され、会社は9か月でクビ。4年間の本格的なひきこもり時代に突入。
 その後、保健所の支援でひきこもりから脱出。2009年、保健師にとってまれにみる成功例として福岡県嘉穂・鞍手保健環境事務所の「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーに就任。自立できるほどの収入はないが、ひきこもり当事者家族の話を聴いて支援をすることになる。
 しかし、2020年に国や県がひきこもり当事者への就労支援を加速させることになり、「ひきこもり家族相談会」のアドバイザーとしてのお役御免となる。
 「死んで地獄に行ったら、鬼に責め苦を喰らい、極楽に行っても悟った超阿弥陀如来に解脱するまで修行させられる」ことを恐れて、今日も何とか生き延びている。