2011/05/18

名前がついてしまうという不幸

未知なる状態や存在が人々に意識されるようになると、その意識を共有化するために、その未知なる状態や存在に名称が付けられる。
名称が付けられると、それらの未知なる状態や存在は、未知なるものではなく、既知なものとして人々に共有化され、認識されるようになる。

「ひきこもり」という名称もまさにそれで、「ひきこもり」という名前がなかった頃は、外部とのコンタクトを一切排除して、部屋でTVゲームばかりしている青年に対して、世の中の多数はそういった人が存在することすら知らなかった。

一部の人たちが、そういった青年たちの存在に気がつき”一体、何が起きているのか?”というのが、最初の彼らの感想だった。

ところが、90年半ばなって、こういった青年らに「ひきこもり」という名称が付与されることになる。そうすると、一気に無名の青年たちの存在に社会の関心が向けられるようになった。関心が向けられると、ひきこもりという状態があたかも良くない状態であり、治療すべき対象のように認識される。

また、「ひきこもり」という名称の登場で、他の大切なことが霞んでしまうこともある。
あるひきこもりの青年は、父親がDVの父で、いつも強権的な父親だった。家族が文句しようものなら、すぐに殴られる。結局、母親はその家を出ていってしまった。このような家族では、その青年がひきこもるのは、当然の自己防衛の行為。しかし「ひきこもり」という名前が登場して「ひきこもり」に焦点が当たってしまったことで、暴力的な父は霞んでしまった。

”ひきこもり病”という病気はないのに、全てのひきこもりを治療し、無くそうとするような風潮が残念ながらある。

ひきこもるという状態は、そもそも意味がある行為だと思う。自分を守るために、ときにひきこもるという状態はとても大切な行為。彼らの扉をあまりノックしすぎると、彼らの大切な防御を壊すことになる。

名前のないものに名前を付けようとするのは、人の性なのかもしれない。しかし、その行為自体に、人を不幸にしてしまう要素があるということを、忘れてはいけない。

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