2011/05/30

フツーに学校を卒業させ、イッパンテキな会社に就職させるという母の役割

不登校の子を抱えた保護者のためのミーティングを福岡県立大学で行っています。
毎月第四土曜日の14:00~90分間。同じ悩みを抱えた親たちが集います。

5月の定例のミーティングでも、親たちの様々な思いが吐露されました。
ミーティングでは、家族や友人にも言えない悩みや怒りを表現することが大切です。

とある母から「子どもに優しくすると、優しすぎると批判される。厳しくすると、厳しすぎると批判される。とかく、子育ては難しい。」というコメントがありました。

イクメンなどという言葉が登場して、男性の子育てが注目を浴びる昨今ですが、どうしても雑誌やテレビの流行り言葉にしか聞こえません。
男性の子育てがファッションとして捉えられているうちは、まだまだ子育ては母親の大切な役割だという暗黙の強制があるように思います。

この不登校の子を抱えた母親の嘆きがそれを見事に表現しているように思います。
現代の”子育て”という言葉には、子どもを風呂に入れたり、食事を与えたり、公園に散歩に連れていったりという意味以上のことが込められていて、その責任を母親に取らせているという意味です。

どんな意味が込められているかというと、「当り前のように学校に行かせ、フツーに高校・大学を卒業させ、イッパンテキな会社に就職させ給料をもらう生活ができるようになる。」までがこの”子育て”という言葉に込められているように思えてならないのです。

そうすると、当り前のように学校に行けない子を持つ母は、その子育てを責められるわけです。
母の中には、この子育ての役割を背負って、疲弊している人たちもいます。


本田和子著『子どもが忌避される時代』(新曜社)では、明治時代以降、わが国では、女性たちに母の役割を押し付けてきた政府と男性社会について、見事に分析しています。

実は、「子どもは母が育てる」という考え方は、たかだか、ここ100年程度の歴史の中で作られてた考え方に過ぎないということなのです。

明治以降、江戸時代までの身分制度が廃止され、誰もが立身出世を求める時代になりました。いつしか”故郷に錦を飾る”ために、女性が子育ての役割を担うことになってしまったというわけです。

現代社会においては、子育てに込められたこの言外の呪縛から解き放たれるのは難しいようです。

不登校やひきこもりのミーティングの場にいらしていただくと、”子育てが、いかに女性の役割として押し付けられているか”を知ることができます。

ミーティングの場に足を運ぶ親たちのほとんどが母親である女性だからです。





2011/05/27

”腐ったものを故意に食べる”という痩せ願望行為

ゼミの学生たちが、卒業論文の研究テーマについて考えている。
昨日は、お互いの問題意識を共有しながら、ディスカッションを繰り返した。

各々、生活しながら”○○が△△なときに、××であることが問題だと思う”という
メモを持ち寄る。

問題意識というのは、机に向かって思い浮かべるようなものじゃない。
普段の生活をしながら、ふとした瞬間に、頭に浮かぶもの。
だから、いつもそれを意識して、メモするというのがここ2週間ほどのゼミの課題だった。

色々と問題意識が上がった。
中でも、結構あったのは、
”最近の若者の言葉遣いや目上の人に対する態度が問題”
なんでも、学生たちの周囲には、目上の人にため口で話しかける後輩が多いのだとか・・・・。
大学のサークルなどの後輩ではなくて、バイト先の後輩らしい。

色々あった中でも、驚いたのは、
”痩せ願望が強い女性の中に、腐ったものを故意に食べてお腹を壊し痩せようとすることが問題”
えええっ!、下剤や浣腸で無理に痩せようとするという話は知っていたが、腐ったものを食べるなんて。命がけのダイエットに驚かされた。過食嘔吐のスタイルも時代とともに変わるのかも。

さて、あと1週間ほど経つと、学生たちの中で問題意識が発酵して、面白いことになるだろう。

2011/05/23

”失敗してはいけない”という強迫観念

ひきこもりの子を抱えた親のミーティングのコーディネーターをしています。
ひきこもりの問題そのものの解決というより、親が自身の悩みを他者と共有することで、
親自身が気がつかなかった親の問題に気がついたり、その問題を解決するための会です。

福岡の楠の会というひきこもりを支援するNPOで、毎月の定例会(第四日曜日)でこのコーディネータをしているのですが、今月5月は、それが29日の日曜日だと思い込んでいました。

のんびりと日曜日の夜を楽しんでいましたら、”今日はどうしたのですか?”と事務局からのメールを頂き、驚いてカレンダーをみると、何と5月の日曜日は第五日曜日まであるではないですか。
気がついたときは、とっくに例会は終わった時間でした。

うっかりして、参加者の皆さんにとんでもない迷惑をおかけしてしまいました。本当に申し訳ないです。

ところで、不登校のことで悩んでいる親御さんの中には、驚くほど完璧主義な方がいらっしゃいます。
そのような親御さんには、「失敗してはいけない」という強迫観念があるようで、それが自分だけの事だったら、まだよいのですが、子どもにも「失敗させたくない」という気持ちがとても強い。
結局、そのようなお子さんは、「失敗するくらいなら何もしない(学校に行かない)。」という選択をしてしまう。

ときに失敗して、私はせいぜいこんなモンです。笑えることができればよいのですが。厳格な家族の元で育った母というのは、「こんなモン」というのが、一体どのようなものなのかすらわからない。

これこそ、家族の問題が世代を超えて連鎖して、現代で不登校という問題として現れた家族機能の問題と言えます。不登校ばかりに目がいって、母の完璧主義や、母の子ども時代の強迫観念に気がつかないと、それこそ、”木を見て森を見ず”です。

そういった方にこそ、家族ミーティングに参加して、”自分で自分の完璧主義な親像を発見して、それを捨ててしまう”ということが必要です。

不登校の子を抱えた親御さんのミーティングは、毎月第四土曜日の14:00から福岡県立大学で行っています(参加費無料)。ご興味のある方は、是非ご連絡をください。

2011/05/19

飛行機が飛ぶという幻想

飛行機はどうして飛ぶのか?


JALに搭乗すると、機内で読める雑誌がある。
JAL SKYWARD がその機内誌。

中でも、浅田次郎氏のエッセイがとても面白い。

もちろん、他にも面白い記事があって、機長のコラムは、飛行機のことや、気象のことなど、パイロットの重要な知識をとてもやさしく解説してくれている。

確か、2010年の11月号だったと思うが、飛行機がなぜ飛ぶのか?というのが、実は空気力学でもベルヌーイの定理でも、完全に説明できないというコラムがあった。

説明できない乗り物に乗っているのかと思ったら、ちょっと青ざめて、窓から外界を見下ろした。
そのとき、私は関西上空を確かに飛んでいたと思うが、それは単に飛んでいたつもりだったのかもしれない。

ひょっとすると、出張で出かけた東京は、そこが東京だったと思い込んでいただけかもしれない。ひょっとすると、ここに生きているというのも、幻想かもしれない。

2011/05/18

名前がついてしまうという不幸

未知なる状態や存在が人々に意識されるようになると、その意識を共有化するために、その未知なる状態や存在に名称が付けられる。
名称が付けられると、それらの未知なる状態や存在は、未知なるものではなく、既知なものとして人々に共有化され、認識されるようになる。

「ひきこもり」という名称もまさにそれで、「ひきこもり」という名前がなかった頃は、外部とのコンタクトを一切排除して、部屋でTVゲームばかりしている青年に対して、世の中の多数はそういった人が存在することすら知らなかった。

一部の人たちが、そういった青年たちの存在に気がつき”一体、何が起きているのか?”というのが、最初の彼らの感想だった。

ところが、90年半ばなって、こういった青年らに「ひきこもり」という名称が付与されることになる。そうすると、一気に無名の青年たちの存在に社会の関心が向けられるようになった。関心が向けられると、ひきこもりという状態があたかも良くない状態であり、治療すべき対象のように認識される。

また、「ひきこもり」という名称の登場で、他の大切なことが霞んでしまうこともある。
あるひきこもりの青年は、父親がDVの父で、いつも強権的な父親だった。家族が文句しようものなら、すぐに殴られる。結局、母親はその家を出ていってしまった。このような家族では、その青年がひきこもるのは、当然の自己防衛の行為。しかし「ひきこもり」という名前が登場して「ひきこもり」に焦点が当たってしまったことで、暴力的な父は霞んでしまった。

”ひきこもり病”という病気はないのに、全てのひきこもりを治療し、無くそうとするような風潮が残念ながらある。

ひきこもるという状態は、そもそも意味がある行為だと思う。自分を守るために、ときにひきこもるという状態はとても大切な行為。彼らの扉をあまりノックしすぎると、彼らの大切な防御を壊すことになる。

名前のないものに名前を付けようとするのは、人の性なのかもしれない。しかし、その行為自体に、人を不幸にしてしまう要素があるということを、忘れてはいけない。

ストーキングというプロセスアディクション

女子大学生が大学内で切りつけられるという事件が起きた。
2011年5月18日 朝日新聞 女子大生ら刺した容疑 神戸学院大卒業生逮捕

大学という場所で、このような事件が起きてしまうのは、人事ではない。

記事によると加害者は、女子学生の元交際相手で、この春に同大学を卒業して就職し、埼玉に移り住んだという。女子学生とは3月に別れたが、その後も「一人ではやっていけない」というメールや電話を繰り返し、東京に来るよう迫っていたという。

いわゆるストーカー事件だが、ストーキングという行為は、プロセスアディクションである。
対象者から見捨てられるのではないかという不安から、その対象にしがみつく行為である。

ストーキング依存は、それが悪いこととわかっているのにも関わらず、ストーキングしてしまう依存症であり、その病理の中核には、対象のことがいつも忘れられないという”強迫観念”がある。また、対象を意のままにコントロールしたいという欲求もこの病理の中核である。

プロセスアディクションの代名詞としては、ギャンブル依存症(Pathological Gambling)がある。四六時中、ギャンブルの事が頭から離れず、ギャンブルをするための金が欲しいために、借金をしたり、人を騙したりする。

ストーキング依存というのも、これと同じで「警察の接近禁止命令が出ているから止める」という単純なものではない。対象の事がいつも忘れられない。対象が離れてしまうと思うと不安が募る。結局、違法行為や迷惑行為をしてまで、対象をコントロールしようとしてしまう。

警察の対応は口頭での厳重注意と誓約書の提出というが、これらの対処はストーキング依存の人にはほとんど意味をなさないと思われる。ストーキング行為に対する治療命令が出ていたらこのような事件を防げるのではないかと切に思う。

2011/05/10

人生の棚卸し

(福岡楠の会 ひきこもりの家族会 2011年5月号)

福岡県立大学大学院看護学研究科 四戸智昭

○回復の場所へ夫婦で登場することの重要性

 前回のエッセイでは、治療や回復の場所に父が登場することの重要性について紹介した。家族がひきこもりという問題を抱えているのなら、精神科や心療内科のカウンセリング、あるいは家族ミーティングのような自助グループの場所に、母(妻)だけではなく、父(夫)の登場が欠かせない。
 このことは、ひきこもりの当事者本人が治療の場所に登場するよりも、夫婦揃って治療の場所に登場することの方が優先するとまで思う。特に、ひきこもりや不登校の直接的なきっかけが、本人の疾病や障害に由来しないのなら、なおのこと家族関係の見直しが重要になる。
家族関係の見直しという作業は、母(妻)独りでできるものではなく、夫婦での登場が必要になる故、父のリーダーシップについて語った。しかし、回復の場所で、父や母が何をするのかについては、紹介していなかった。今回は、家族ミーティングという場所で、父や母が行う“人生の棚卸し”について話題をすすめていきたい。



○恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行なうということ
 アルコール依存症から回復すするための自助グループA.A.(アルコーリックス・アノニマス)は、自助グループ(当事者だけの回復のためのグループ)の原型を作ったとも言われる。

表 A.A.の回復のための12ステップ
1.   私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
2.   自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
3.   私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
4.   恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
5.   神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
6.   こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
7.   私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
8.   私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
9.   その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。
10.  自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。
11.  祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。
12. これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージをアルコホーリクに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。
 
 彼らは、ミーティングの開始冒頭、アルコール依存症から回復するための「12ステップ」という言葉を唱和する。ご存知の方もいらっしゃると思うが、対して長い文章ではないので、ここに全文を紹介したい。

この回復のための12ステップには、アルコール依存症という病気からの回復だけでなく、他の依存症問題(ギャンブルやショッピング)、あるいは、お酒を飲まないが自己中心的な人の病気(ドライ・ドランカーの病)や、人間関係の依存(共依存症)からの回復にも重要なメッセージが込められている。
紙面の都合、全文の解説をすることは、今回は割愛するが、第4番目のメッセージ「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。」という言葉は、家族ミーティングに参加する参加者たちにも、とても重要なメッセージと言える。





○人生の棚卸しをするということ
 家族ミーティングの場で、あなたがすべきことは、「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行なうこと、さらにそれを表にまとめること」につきると思う。自分がどのように妻や夫に接してきたのか、あるいは息子や娘に接してきたのか。それを振り返り、自分に非があることを素直に認めることは、とても大変な作業である。
まして、その事をミーティングという場所で他者に告白するのであるから、この作業には大変な痛みが伴う。単に、“ごめんなさい”と懺悔すればよいというのではない。もし、かつて自分が家族の中で自己中心的に振舞っていたのなら「その態度を反省し、二度と同じようなことをしない。」という宣誓がこの第4番目のメッセージである。
不幸なことに、自己の振る舞いや考え方というのは、自分ではそれに非があると気が付きにくい。だから、私たちは家族ミーティングという場所で、他者の話に耳を傾けるのである。
他者の話の中に、実は自分が登場していることに気がつくようになると、あなたの“聴く耳(リスニング)”能力が着実に付いてきたとも言える。ミーティングの場所で、その事(気づいたこと)を告白することも重要である。
これが、人生の棚卸しという作業である。何度も言うが、棚卸しの作業は、懺悔の繰り返しではない。将来に向かって、私が具体的にこのように変わりたいという宣言もここに含まれる。
このように、人間を成長させてくれるチャンスが家族ミーティングには眠っている。そのチャンスを掘り起こすのは、他でもなく、あなたとあなたのパートナーの作業である。